内田樹著「ためらいの倫理学」の「自由主義史観について」に、次のような言葉がありました。
【私たちは知性を検証する場合に、ふつう『自己批判能力』を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができるかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことにいいことになっている。】
なかなかよい言葉であり、心せねばならないと思います。しかし、それは、決して相対主義や懐疑主義に陥ることが知性であるということではないと思います。
気をつけて見ていると、世の中には、自分に都合が良いことが善であり、自分に都合が悪いことが悪であると無意識で判断している人々の多いことに驚かされます。私たちの考え方は、私たちに与えられた状況により影響を受けていることは確かです。人々の意識がその存在を決定するのではなく、その社会的あり方によって意識が形成されるのであり、自分自身もその例外ではないことを理解する必要があります。
しかし、人間は単なる受動的な存在ではありません。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さを勘定に入れて、考えを発展させる主体性をもった存在です。
絶えず、自分の考えはこれでよいか、間違ってはいないかという謙虚さを保つことこそ、自分を成長させるものだと思います。しかし、それでもその価値を疑いようのないものもあるように思います。一方、「人間は真理を認識できない」、「真理など存在しない」、「正しいこと、正義など存在しない」、などと言うならば、そのような命題こそ、「それで良いのか」「間違っていないか」との検証が必要だと思います。