私たちの周りにあるものは、すべて個別的なものばかりです。家の中を見渡しても、机一般というものも見当たりませんし、イス一般というものもありません。この机、このイス、そしてまた別のこのイスがあるだけです。机という一般概念、イスという一般概念はどのようにして生まれたのでしょう。

私は、一般概念が生まれたのは、私たちの生活と関わり方から生まれたのではないかと思います。例えば私たちの祖先は、狩猟生活をしていましたが、狩に出かけて、見つけるのはこの鹿、あの鹿という個別です。最初は「鹿」とか「動物」という一般概念もなかったかもしれません(それだけでなく、鹿の角だとか、模様だとかいう概念もなかったでしょうが、このような概念を使わずに説明するのは、難しいので、以下、いちいち断りません)。

しかし、ここにも「角のある四足動物」あそこにも「同じような動物」、これは「少し異なる動物」というような感じで、見えていたでしょう。

そこで、彼らの狩にとっては、食べられればよいのであって、「この」「角がある四足動物」でなければならないということはないわけです。つまり、ある種の「角がある四足動物」は、彼らにとってはどれでも同じであるということになります。かれらにとって、同じように見え、同じ意味しか持たないものを同じ一般概念である「鹿」として把握することは、自然の成り行きでしょう。

同じく食べることができる動物でも、見た目の異なるものは捕まえ方も異なるでしょうし、食べた味も異なるので、例えば「牛」という異なる一般概念として把握することも自然の成り行きです。

米を語るとき、米粒ひとつひとつを個別として把握することなく、まとまりとして「米」として把握するのは、彼らの生活において、ひとつひとつではなく、まとめて調理し、まとめて食べていたからに他なりません。

また、私たちのとらえ方に「個別、特殊、一般」といった階層があるのは、現実の世界でのあり方が、そのようなあり方をしていることの反映に他なりません。

記号としての言葉には、必然性はありません。「犬」「dog」「chien」「Hund」と様々な呼び方があるのは、このことを反映しています。

しかし、「犬」「馬」「牛」について、どの文化圏でも異なる名詞があるのは、これらが、人間が、これらのそれぞれと異なるかかわり方をしていることを反映しています。その反面、英語では、貝は「shell fish」、イカは「cuttle fish」と「fish」とひとまとめにしているのに対し、日本語で「馬」でくくられるものが、「horse」「pony」「colt」「stallion」「mare」「zebra」とまったく異なった語彙の豊富なことは、漁業よりも牧畜との密接な関わりを反映するものと言えます。

「イス」という一般概念があるのは、私たちにとって、座るためには、特定のイスである必要がないことの反映です。私たちが一般概念を持っているのは、プラトンの言うような「イデア」を見ているのではなく、私たちとの関わり方、私たちへの現れ方を見ているのです。