世界のとらえ方の基本的な原型は、「唯物論」と「客観的観念論」「主観的観念論」の三通りがあります。これらは存在論に関するものですが、簡単に説明すると次のとおりです。以下、基本的な説明ですので、必要のない人は、●へ進んでください。

 存在論とは、世界はどのような存在であるかということです。例えば「世界は神によって創られた」、「世界は自分が認識する限りにおいて存在する」「世界は物質からなっている」というのは、存在論に関するものであるということができます。存在論は、精神と物質との関係について、どちらの方が、より根源的と考えるかによって、唯物論と観念論とに分かれます。ここで誤解してはならないことは、どちらの方が根源的な存在であるかということは、どちらが重要かということではないということです。唯物論とは、「精神的なものに対して、物質的なものの方が、より根源的な存在である」という考え方で、観念論とは、「物質的なものに対して、自分の意識や神のような精神的なものの方が、より根源的な存在である」という考え方です。

 唯物論は、精神的なものに対して物質的なものの方がより根源的な存在であり、物質的なものがあってこそ、精神が存在することができると考えます。唯物論には、物質をそれ自体で能動性をもったものと考える立場(弁証法的唯物論)と、物質をあくまで受動的なものとみる立場(機械的唯物論)に分かれます。物質をそれ自体で能動性をもったものと考える立場は、精神が能動性をもつのは、物質自体の能動性が高度に組織化されたものと説明します。一方、物質を受動的なものとみる立場では、宇宙が始まった時点で、未来はすでに決まっていたというように考えたり、精神の能動性は錯覚にすぎないというように考えたりします(決定論的唯物論)。

 観念論のひとつには、物質的な世界は、神という精神的な存在が作ったものであると考えるものがあります(客観的観念論)。神が物質的な世界を作ったという考えは、旧約聖書にある天地創造などにも見ることができます。

 一方、観念論には、「物質的な世界は、自分の意識があってこそ、存在するものである」という考え(主観的観念論)もあります。この種の観念論は、新しい哲学でもいろいろな形でみることができます。この立場は、物質的なものと精神的なものの関係に関して、一見中立的に見えますが、自分の意識の外にある世界、すなわち意識を離れた客観的な世界の存在に関して、否定的であったり懐疑的であったりして、物質的なものの存在よりも、自分の感覚や意識という精神的なものを絶対的なものとしていますので、結局は観念論に属するということができます。

●「宇宙はエネルギーからなる」

 唯物論は、自然科学の立場と一致するものということができます。しかし、物質から、精神の能動性を導き出すことに、困難を感ずる人が多いようです。

私は、物質の概念を「エネルギー」に置き換えればよいのではないかと思います。アインシュタインの有名な方程式「E=mc2」は、質量がエネルギーに還元できることを表しています。つまり、「宇宙は物質からなる」は、「宇宙はエネルギーからなる」ということになります。

精神は、エネルギーの存在形態であると、とらえればどうでしょう。エネルギーは、決して自然法則に縛られるだけの受身的な存在ではありません。エネルギーは、自然法則に従いながらも、自らの運動の原因ともなり、他を動かす原因ともなります。

つまり、生物の進化において、精神が生まれたということは、エネルギーが高次のエネルギーのあり方へと発展したということです。そしてその高次のあり方とは、エネルギーそのものが自分及び外界を意識するようなあり方です。