哲学というと、人生とは日常と違うところにあるように論ずるところがありますが、私は日常こそ人生の本質であり、また常識こそ、人間の本質に根ざした認識ではないかと思っています。普通で当たり前であることの意義を見出したいと思っています。

広辞苑によりますと「常識」とは「普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに理解力・判断力・思慮分別などを含む」とあります。
青木書店の哲学辞典によりますと、次のように説明されています。「ある特定社会で、その範囲の大小を問わず、例えば一国でも一地域でも、そこに生活する人々の日常生活の上から形成される見解・習慣・考え方などの総体をいい、そこの人々にとっては自明なこととして受け取られる。・・・常識は生活の変化にしたがって変わるので歴史的な性格を持つ。・・・普通の常識は日常生活のうちで育ち、特に立ち入って考察を加えて成立つのではないものであり、科学的見解と異なりもするし、またこれと対立することもしばしばある。この関係は、時代の経過とともに科学的知識の普及が進むにつれて縮小されていく過程を取るといえる。」

私は、常識には二つの側面があると思います。1つは社会の風習によって作られたもの、もう1つは、普遍性を持つから常識とされているもの、です。前者は文化を形成している反面、不合理なものや捨てるべきものも多いかもしれません。しかし、後者は、理解力・判断力・思慮分別において、人間の最後のよりどころになるものではないかと思っています。

哲学者の戸坂潤は、「『常識』の分析」において次のように言っています。

一般に、日常性とは、結局俗物さの対応物だとされ、人々はそれ以上考察を敢えてしようとはしないようだ。しかし、こうして常識的に日常性を俗物的だとしか見ない態度が、却ってそれ自身ごく日常的なものに他ならないのであって、それ自身却って甚だ俗物的な常識に過ぎない。日常性には立派に日常性の原理というべきものがあって、それが哲学を俗悪で無意味な形而上論から区別している。日常性を単なる俗物性とし、排斥する常識論は、日常性の本来の意義に対して無感覚な非常識に過ぎない。

人々は、他人を「非常識な人間」だと思うときは、「常識」のよい面を見ており、人間としての本来のあり方を無意識に洞察し、自らの規範としているのではないでしょうか。