哲学の根本問題として、「物質と精神とはどちらが根源的な存在か」というものがあります。ここで唯物論と観念論が別れ、唯物論は、物質の能動性を認める弁証法的唯物論と、それを認めない決定論的唯物論に分かれます。観念論の方は、神を根源的存在とする客観的観念論と、自分の意識と感覚を根源的とする主観的観念論に分かれます。
これらの対立は科学で決着させることはできません。私としては、最終的に力を持ちえるのは弁証法的唯物論ではないかと思っております。しかし、それ以外のものも、対抗して発展していくと思われます。ローマ教会が、天地創造はビッグバンのことであると言い出したりするのも、その例でしょう。
いずれの立場をとるべきかに、絶対的な証明はありません。究極的に独我論である主観的観念論に科学的証明は、無意味です。また自然の背後に神を想定することは可能であり、それに対しては、神が存在しないことの証明ということもできません。結局は妥当性に関して議論するしかないのではないかと思います。
価値論における妥当性は、社会的歴史的に変わるものでしょう。しかし、存在をどうとらえるかの妥当性に関しては、社会的歴史的に理論的に発展するものではあるかもしれませんが、その妥当性そのものが社会的歴史的に変化するわけではないと思います。哲学そのものの範囲も明確ではありません。宗教も「哲学」だと称する自由を持っております。
「現在哲学として扱われている部門も、科学として独立してゆく」のではないかとの問いに対する応えは「Yes」でもあり「No」でもあると思います。そのような科学があり得るとすれば、それは弁証法的唯物論のことだと思います。物理学、化学などの科学と弁証法的唯物論の共通することは、あくまでも理性をよりどころとして、現実に即して認識し理解することです。これが万学の母である本来の哲学の主流たるべき流れであり、その他のものは、亜流なのではないかと思います。
しかし、すべてが科学で包含されるかというと、認識そのものをどうとらえるかや、価値や意味に関しては、やはり科学に還元できないと思いますが、弁証法的唯物論的アプローチというものはあるのではないかと思います。
これらの対立は科学で決着させることはできません。私としては、最終的に力を持ちえるのは弁証法的唯物論ではないかと思っております。しかし、それ以外のものも、対抗して発展していくと思われます。ローマ教会が、天地創造はビッグバンのことであると言い出したりするのも、その例でしょう。
いずれの立場をとるべきかに、絶対的な証明はありません。究極的に独我論である主観的観念論に科学的証明は、無意味です。また自然の背後に神を想定することは可能であり、それに対しては、神が存在しないことの証明ということもできません。結局は妥当性に関して議論するしかないのではないかと思います。
価値論における妥当性は、社会的歴史的に変わるものでしょう。しかし、存在をどうとらえるかの妥当性に関しては、社会的歴史的に理論的に発展するものではあるかもしれませんが、その妥当性そのものが社会的歴史的に変化するわけではないと思います。哲学そのものの範囲も明確ではありません。宗教も「哲学」だと称する自由を持っております。
「現在哲学として扱われている部門も、科学として独立してゆく」のではないかとの問いに対する応えは「Yes」でもあり「No」でもあると思います。そのような科学があり得るとすれば、それは弁証法的唯物論のことだと思います。物理学、化学などの科学と弁証法的唯物論の共通することは、あくまでも理性をよりどころとして、現実に即して認識し理解することです。これが万学の母である本来の哲学の主流たるべき流れであり、その他のものは、亜流なのではないかと思います。
しかし、すべてが科学で包含されるかというと、認識そのものをどうとらえるかや、価値や意味に関しては、やはり科学に還元できないと思いますが、弁証法的唯物論的アプローチというものはあるのではないかと思います。