哲学の入門書は、大体がギリシア哲学に始まる哲学史の説明をしています。哲学史では、過去の誰それが、どんなことを考えたとかは、教えてくれますが、そのうちのどれが正しいかは教えてくれません。また、過去にいろいろな考え方があったことが、真理の探究や、自分の現実と人生にどう関係するのか良くわからない人が多いのではないかと思います。

また、哲学は、真理に関して考えることをひとつの任務としながら、哲学の教科書には物理学の教科書のような意味での体系的な教科書がありません。哲学というと古典を読むのが一般的であり、哲学の授業でも、哲学の古典的名著を読まされることが多いようです。科学のような普遍的な「哲学」というものがなく、アリストテレス哲学、カント哲学、ヘーゲル哲学というように人の名のついた哲学しかないように思われます。

これに対して、物理学や化学などの歴史を見ると、時代とともに明らかな進歩や発展があり、認識された真理の蓄積といったものをはっきりと見ることができます。そして、例えば力学を学習する場合に、雑談としてならともかく、ニュートン以前の力学の歴史を説明することもありませんし、力学の勉強のためにニュートンの「プリンキピア」を読ませるということもあまり聞きません。力学にはこれまでの成果をまとめた、体系的な教科書があります。

哲学と他の学問とは、なぜこのように違うのでしょう。私は、その理由は、哲学において、現実に基づいて認識を進めるという原則が共有されていないからだと思います。科学においては、このような原則が確立されているからこそ、真理に関する明確な基準が与えられ、また、真理の認識の蓄積が可能になったのだと思います。科学においては、そのような原則を踏外して、現実に基づかない主張をするような研究者は相手にされません。

一方、哲学ではどうでしょう。その根拠を、神に置こうが、自分自身の意識に置こうが、何でもありです。そして、現実に即した哲学を打ちたてようとしても、超自然的な存在を絶対的な前提とし、そのような前提が存亡に関わる、宗教との間に必然的に対立を発生します。

過去の時代においては、科学者さえもが、超自然的な存在の前提を脅かすものとして迫害されることもありました。現代において、科学と宗教が明確な対立が表面化しないのは、科学を自然科学に限定し、神については、科学の領域外のものとしているからでしょう。

哲学においては、科学を超えて真理を探究するならば、神の問題に関わらずを得ません。しかし、例えば、自然界の外に神が存在するかや、死後の世界が存在するかどうかなど、確認のしようのないことを、ああでもない、こうでもないと想像しても意味がないと思っています。意味のある議論をするということは、現実に基づいて認識する以外には、道はないと思います。哲学は理性による真理の認識であり、想像ごっこではないのです。

哲学においては、一般に実験はありません。しかし、すべての学問を統合し、人間はいかに生きるべきかを指示すという任務があります。自然哲学や科学哲学に限らず、価値や意味の問題も現実的な議論が可能だと思います。そのような本当の哲学が、哲学の主流となることを待ち望んでいます。