「100%客観的と呼べるような「事実」はない」というのは、私流に言うと、「『事実(現実に起こったもしくは起こっている出来事)』が客観的にあるとしても、それを100%認識することはできない」ということだと思います。ここに「認識される対象」と「対象の認識」とを明確に区別する認識論的意義があるということです。

「100%客観的と呼べるような「事実」はない」という命題には、両者の混同またはその恐れがあります。「認識される対象」があるかないかということは、世界観の根幹に関わる問題です。もちろん、私は、「認識される対象」は客観的にあるという立場です。

認識の過程において、客観的世界の「認識される対象」は常に目標として100%であり、「認識される対象」を語りつくすことはできないのであって、その「対象の認識」が100%でないことは、取り立てて言うまでもない、ごく普通のことです。

「主観を排除することは、『判断』をしないということである」というのは「科学的真理の認識」を否定する誤りだと思います。現に科学はその基準を「認識される対象」に置くことによって、主観を排除しつつ「判断」しています。

「事実の存在はあくまでも観念的なものであって、実体的に現実に存在する物質的なものと混同してはいけない」と言い、「事実の『存在』」と表現することも「認識される対象」と「対象の認識」を混同することからくる主張ではないかと思われます。客観的世界には、物が存在し、物同士の相互関係、運動、変化、発展があります。「物同士の相互関係、運動、変化、発展」は、物というよりも「事」です。つまり客観的世界には、「物」も「事」も存在します。我々が認識しようがしまいが、「現実に起こったもしくは起こっている出来事」は存在していることをまず明確にする必要があります。