◆価値とは
哲学辞典(青木書店)によると、「価値」とは「広い意味で『良い』といわれる性質」とあります。一方「善と悪」を見ると、「社会の諸現象や人の行為についての道徳的評価を示す。善とは、社会が道徳的価値ありとし、それの拡大を進めるものであり、悪とは、これと正反対のもののことである。」とあります。つまり「価値」と「善」とは、共通する根拠を持つと言うことができます。

また、同辞典には、次のように説明されています。「価値は三つの部類に大別される。(1)欲求の対象としての価値。欲求には好き嫌いなどの単純なものから複雑な文化的欲求に至るまで様々であるが、個人ないし集団のそうした欲求にこたえる有形・無形の対象のもつ性質が価値である。この場合の価値は規範的性格を持たない。(2)規範としての価値。我々の好悪に関わらず「よい」として承認し、実現するべきもの。例えば道徳上の規範。(3)手段としての価値。ある目的を達成する手段として役立つ対象の性質をいう。ほとんど抵抗なしに手段も欲求される場合と、例えば病気を治療するために、手術はいやであるが、しなければならぬというような場合とがあり、後者の場合には手段的価値も当為的な性格を持つ。」

◆三種類の価値の関係
「(1)欲求の対象としての価値」によりますと、欲求を満たしてくれるものが価値であるということになり、快楽主義に通じます。
「(2)規範としての価値」によりますと、必ずしも欲求とは直接結びつきません。しかし、このような価値は「(1)欲求の対象としての価値」とは無関係のものでしょうか。道徳の最も原始的なものは「人を殺してはいけない」「他人のものを盗んではいけない」でしょう。これらが、なぜ道徳的なのでしょう。

道徳とは社会的なものすなわち、人間の集まりにおいて、あるべきあり方のことです。「人を殺してもよい」を社会的規範にするということは、「自分が殺される」ことを承認することに他なりません。正常な人であれば、生きたいという欲求があるわけですから、「自分が殺される」ことを認めるわけにはいきません。ということは、「人を殺してはいけない」という道徳は、人間の基本的欲求に基づくものだということができます。

「他人のものを盗んではいけない」が、道徳となっていることも、「他人のものを盗んでもよい」ということは「自分のものが盗まれる」ことを承認するものであることに基づくことは容易に類推できるでしょう。「死の危険のある状況の人を助ける」ことが、道徳的であるのは、「自分が死の危険にあるときに助けてもらえる」ことが期待されるからです。ですから、これも生きたいという欲求につながっています。

「(3)手段としての価値」はどうでしょうか。例にある「病気をなおすために、手術はいやだが、しなければならない」というのは、手術は一時の苦痛や危険を伴いますが、うまくいけば病気の苦痛から解放されるという利点を持っています。つまり、「快適に生きたい」という欲求に基づいています。

このように考えると、「(2)規範としての価値」も「(3)手段としての価値」も「(1)欲求の対象としての価値」から派生するものだということができます。つまり、快楽を求め、苦痛を避けることが、究極の基準になっているのです。ですから、欲求を満足させることは、すなわち、快楽を求め、苦痛を避けることは、決して道徳的に否定されるべきことではありません。ただし、道徳において、求められる快楽と避けるべき苦痛は、単純に「自分自身」のものではなく、「他人」についての考慮が必要になることです。つまり社会的な観点が必要なのです。

◆快楽を求め、苦痛を避けることは良くないことか
それでは、一般的に、快楽を求め、苦痛を避けることは良くないこととされているのは、何故でしょうか。それは、道徳というよりも、教育的観点からではないかと思います。快楽を求め、苦痛を避けることが、よいことだということになると、誰でも、特に子供は、目先の自分の快楽と苦痛のことばかり考えます。しかし、このような目先の快楽を求め、目先の苦痛を避けることに目を奪われますと、(1) 自分の快楽を追及することが、他人の快楽を奪う可能性があることや、他人に苦痛を与える可能性があることが、見えにくくなります。また、(2) 自分の目先の快楽を追及することが、自分の長期に亘る快楽をもたらすことになるとは限りませんし、却って長期の苦痛をもたらす結果にならないとも限りません。

人間は本能的に、快楽を求め、苦痛を避けるようにできています。したがって、それを戒めたとしても、むしろ丁度よい状態にはたらくという現実的な教育的配慮があるのではないでしょうか。したがって、道徳を考えるにも、その基本となるのは、自分自身の快楽と苦痛であり、他人の快楽と苦痛です。これらを調和させることが、道徳において求められることです。