「神は存在するか」という問題を切る考えるときに、そもそも「存在とはどういうことか」が問題になると思います。そして、その定義により、神は存在したり、存在しなかったりすると思います。

まず、存在とはどういうことかというと、究極的には「関係し得ること」すなわち「影響し得ること」ではないかと思います。「すべての存在は関係しあっている」というよりも、私は、存在するとは、関係し得ることに他ならないと思います。ですから、関係し得ないものは、本来的に存在しないということになります。

また、神の存在を論ずる際に、「神」の存在と、「神という観念」の存在も、明確に区別しなければなりません。

ある人が神を信ずることにより、心が満たされ、救われたとします。それは、その人が「神の観念」を持ったということであり、「神の観念」の効用です。その人の意識の中に「神という観念」が存在することは疑う余地はないでしょう。しかし、 このような「神の観念」の存在から、「神」が存在することを証明することはできません。神を信ずることにより病気が治ったというようなことがあったとしても、心理的な錯覚が身体に影響を及ぼすことがあるのと同様と考えることができます。

「現象の背後に存在するものが神である」ならば、現象の背後にあるとは、どういうことかが問題です。 もしそれが、関係しあうことも認識することもできないものであるならば、そもそもそれは「存在しない神」でしかありません。

「自然そのものが神である」ならば、「自然」と「神」とは、同義語ということになります。この場合は、「神」が存在することになりますが、それは「自然」の概念そのものであり、宗教でいう「神」ではないと思います。

人格神の概念が現れたのは、人間は理不尽な災害をその対策もなくそのまま受容れることができない性格の動物だからだと思います。しばしば起こる災害が、何の理由もなく、自分達を苦しめることが理解できず、「これは、何らかの超越的な存在の怒りに触れたのであり、その怒りをしずめることにより、災害を防ぐことができる」というように一応の対策を見つけなければ、安心できないのです。「神の思し召しのまま」と考えて、神を信頼し、神の意志に適った生き方をし、それによって、現世及び来世の幸福を得ようというのも、同じように、理不尽な現世の幸運と不運に対する「一応の対策」ではないかと思います。