◆ 倫理・道徳とは
倫理とは「人倫の道。実際道徳の規範となる原理。道徳」とあり、道徳は「人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。今日では、自然や文化財や技術品など事物に対する人間のあるべき態度もこれに含まれる。」(広辞苑)とあります。
両者の区別は判りにくいですが、道徳とは「社会において、一般に承認されている規範の総体」として、社会的に構成されたものであり、倫理とは「道徳の規範となる原理」すなわち道徳の理論であるということができるでしょう。すなわち、道徳のあり方を問題とする学問が倫理学であるといえます。
◆ 自然科学と道徳
倫理学は、学問でありますから、科学的論理的な思考が求められます。しかし、自然科学から倫理を導き出すことができるでしょうか。自然科学は、自然がどのように成り立っているかを明らかにするものであっても、それ自体価値判断を与えるものではありません。現実において人々は、科学的データに基づいて意思決定をしていますが、決して科学により価値判断をしているわけではありません。
例えば、医療の現場において、医者は、患者を検査して、患者の病状を把握し、可能な治療法の中から、最適な治療法を選択して、治療を施します。その都度価値判断が行われているのではなく、それ以前に、人命の尊重、健康な生活の大切さ、という社会的な価値観が医学という科学の外に存在しているのです。医者は、生命の維持と、健康な生活の回復を目標として、医学的知識に基づき、最も適した治療法を選択しているに過ぎません。安楽死や尊厳死の是非、クローン技術の人間への応用の是非などの問題に関しても、科学は回答を与えることができません。
◆ 倫理・道徳の原点をどこに求めるか。
倫理・道徳は、自分がどう生きるかという問いに答えるものでなければなりません。つまり、善悪の判断すなわち価値判断が必要になってきます。自分がどう生きるかということですから、そこには自分の生を肯定することから始めなければなりません。自分が死ぬための道徳などないのです。といっても自殺を決意したら何をしてもよいということではありません。破れかぶれになって、無関係人々を道連れに自殺しようとする者がいますが、彼らは、自分の生を否定するという原点を誤ることにより、自分の生を一層惨めでばかばかしいものにしているのです。
また、死刑囚や終戦前の特攻隊のように死を強制される人々もいますが、そのような極限状態から、道徳を導き出すこともできないでしょう。本来、道徳は自由意志に基づく行為に関するものです。現在の日本社会は、曲がりなりにも自由意志に基づく行動が保障されており、道徳が成り立ち得ると言えるでしょう。
自分の生を肯定することから始めた次は、自分自身の外の世界との関わりについて考えなければなりません。物や動物から道徳を導き出すことはできるでしょうか。動物愛護という思想があります。それは良いとして、人間は動物や植物を殺さずには、ただ生存することさえできません。牛や豚、鶏の立場から、人間の道徳を導き出すことはできないのです。したがって、人間は人間として生きることから善悪や価値を導き出さなければなりません。
◆ 善悪や価値はどのように判断するのか。
人間として生きる道を樹立するためには善悪を計る物差しが必要になります。善悪はどのように判断するのでしょう。善悪は目を閉じて良心に聞けばわかるという人もいます。しかし、そうであれば、人々の悩みはもっと少ないはずです。実際には、状況が複雑になってくると良心も簡単に結論を出してくれないのではないでしょうか。また、自分は良心にしたがって意見を言っていても、自分と反対の立場の人も同様に良心にしたがって意見を言っているということもあります。このようなことがおこるのはなぜでしょうか。
神の意思にかなったものが善であるという人もいます。それではどうすれば神の意思を知ることができるのでしょう。教会の神父や牧師に聞けばよいのでしょうか。お寺の僧侶に聞けばよいのでしょうか。それとも神社の神主に聞けばよいのでしょうか。神父や牧師に聞けばわかるなら、なぜ過去に異端裁判や魔女狩りなどが行われたのでしょう。僧侶に聞けばよいのであれば、お寺に宗派の対立などがあるのでしょう。神道にしても廃仏毀釈など、なぜ起ったのでしょう。
善悪は時代によって変わるもので、そもそも善悪は人間が勝手につけたものだと言う人もいます。ほんとにそうなのでしょうか。でも、殺すなかれ、盗むなかれは、どのような社会でも善悪の基本といえるのはなぜでしょう。
◆善悪と価値の基準
私は、善悪すなわち価値の基準は、人間同士の関係に基づいて判断されるべきものではないかと思います。自分を肯定することからスタートして、次に自分以外の人々とどう関わるかということです。人間は、「人間」という文字が示すように、他の人々の中で生きるものであり、まったく孤立して成り立っている人間はそもそも存在しません。親に生んでもらい、人々の中で育てられて人間は人間になり、人々とともに生き、人々の中で死んでいくのです。
自分を肯定するということは、自分の欲望を肯定することも含みます。しかし、自分の欲望の肯定は、他の人々との利害の対立を生み出します。ここで、自分の欲望を貫いて他の人々の利害を無視してもよいか、自分の欲望を抑えるべきかという問題に突き当たります。この問題は、社会とどう関わるかということですが、社会と関わるということは、社会の存在を前提とするものであり、自分が社会の一員であることを承認することです。
自分が社会の一員であることを承認するならば、自分が他人に関わる行動規範は、他人が自分に関わる行動規範として受容れられるものである必要があります。私が、自分の欲望を貫いて他の人々の利害を無視してよいならば、他人も、彼自身の欲望を貫いて私の利害を無視してもよいことになります。これを受容れるには、自分の被害が許容できる限度内である必要があります。人間同士持ちつ持たれつであり、個人の完全な自由はあり得ませんから、多少の迷惑はお互いに許しあわなければならないのです。しかし、殺すなかれ、盗むなかれは、自分が殺されることや、自分の物が盗まれることを、許容できる限度を超えるものとして、必然性をもって生まれてきた社会的規範だと思います。「殺す」「盗む」という行為自体、他の人間の存在を前提とする他の人間との関わりに他なりません。自殺は自分ひとりでできますが、自殺が悪であるのは、生を与えてくれた親がいて、育ててくれた人々がいるからこそでしょう。
数多くの歴史上の誤りは、「お犬様」などは論外としても、神や国家、種族、家など、いずれも「人間」を離れたところに価値を置くことに由来しているように思われます。他人も自分と同じで対等の人間であることが、忘れられています。自分にとっての神や国家、種族、家などが大切であるならばなおさらのこと、他人がその人にとっての神や国家、種族、家などを同様に大切にする権利を保障すべきはずです。
◆善悪や価値の本質
人生の目的は、自分と他の人々の幸福を追求することにあるということができます。であるならば、善悪と価値は当然に幸福の追求に関わるものということができます。
他人の幸福のために貢献することが「善」であることに異論のある人はいないでしょう。また、自分の幸福を追求することは、人生の目的に沿ったものですから、他人の幸福に貢献することが「善」であるのと同様に、「善」であるはずです。自分自身が幸せになることは、自分を愛し自分の幸せを願ってくれる人々の願いに答えることでもあるはずです。
自分の幸福を追求することの善悪が問題となるのは、それが他人の幸福と矛盾する場合です。そのときに他人を思いやり、その人の幸福との調和をはかることが必要になります。このように個人が幸福を追求する間で矛盾が生ずる場合、「善」とは、人と人の関係において調和をもたらすものであり、「悪」とは、その反対に、調和を破壊するものではないでしょうか。
ですから、自分の幸福を追求することは「善」であったはずですが、他人の幸福との矛盾を省みないで自分の幸福を追求する利己主義は「悪」に変わります。このような状況での「善」とは、自分の幸福と他人の幸福との調和をはかることだということができます。この場合にも他人との関係で必要となる以上に自己犠牲的であったり禁欲的であったりするのは、必ずしも「善」とは言えません。
◆善悪と感情、意志
感情など、自分自身の意志に関わらず発生し、自分の内部に留まっているものには、善悪の介在する余地はないと言えます。正当防衛でない限り、「人を殺す」ことは悪いことであると言えますが、例えば、幼い子供が酔払い運転の車にはねられて死んだとします。その子の親が「その運転手を殺したい」と思ったとしても、それは自然な感情です。そう感じることに意志が介在していませんから、その感情そのものには善悪はありません。問題はそこから意志がどのように介在するかが善悪をわけます。
人を妬んだりする気持ちも、自分自身の意志に関わらず発生し、自分の内部に留まっている限りは「悪」だとは言えません。「自分の心が醜い」などと自分自身を責めたり、自己嫌悪に陥る必要はありません。醜いのは、その妬みをその人への嫌がらせによりはけ口を求めたりすることです。