カントの認識論

一切の認識は、主観と外界との産物である。外界は、認識に経験の材料を与え、主観は、認識の形式、すなわち悟性概念を与える。外界がなければ現象はなく、悟性がなければ、現象や知覚は相互に統合された表象となることはない。

認識とは、概念の枠に経験の素材を満たし、経験の素材を悟性概念によって捉えることによって、両者をあわせたものである。これは物事をありのままに認識するものとは言えない。

なぜならば、認識においては、認識の材料として与えられたものに対して、主観の悟性の形式であるカテゴリを当てはめて認識するのであるから、主観にとって把握できるやり方で認識するに過ぎないからである。

さらに、主観が経験の素材を悟性概念によって捉える前の直観でさえも、すでに経験の対象の普遍的形式である時間と空間という主観的な形式が関与している。このような形式なしには直観することさえも不可能である。

したがって、主観が認識するものは主観的な形式を経た現象に過ぎず、物自体の真のあり方ではない。

(シュヴェーグラー著「西洋哲学史」を参考にしました)

 

カントの認識論が、広く受け入れられているのは、認識のあり方の本質を反映しているからでしょう。

 

 

トラックバックさせてもらった上下さんの記事でおっしゃるように、「リンゴを知覚しているときは、背景の中からリンゴだけを分離して、把握している。一点から片目をつぶって二次元的に把握しても、リンゴがあれば、リンゴだけ分離して把握する。」「自らの知識や経験や先天的な枠組みといった事を駆使して、リンゴを積極的に、背景から分離して、リンゴとして把握しているように思う。具体的に言えば、『一般的なリンゴなるもの』の知識、枠組みを当てはめている、放出している」ということができます。部屋の中を眺めるにしても、ありのままに眺めるのではなく、ものの集まりとして眺めるわけです。

 

 

カントの認識論の問題点は、主観的な形式が、経験と無関係なものであるとしていることです。しかし、主観が時間と空間という形式を持っているのは、外界が時間と空間と認識しえるような形式で存在することの反映でしかありません。時間と空間という形式が明確なものとして形成されるのは、我々の成長過程の経験に基づいているのです。もし主観的な形式が、経験と無関係なものであるならば、幼い子供にも明確な時間や空間の概念が確立していてもよいはずですが、幼い子供はそのような明確に確立された時間や空間の概念を持っていません。

 

 

リンゴの認識にしても、我々がリンゴとの関わってきた経験によって、「リンゴ」という概念が形成されてきたのです。

 

 

したがって、主観的な形式も悟性概念といわれるものも、経験と無関係なものではなく、むしろ経験により形成されるものであることを正しく理解することが必要です。このような立場から、カントの認識論を見直す必要があると思います。

 

 

カントは、ヒュームの懐疑論に大きく影響されています。ヒュームによれば、人間にとって存在するのは感覚的経験の流れであって、それが何によって起こっているかを知ることはできないと言います。自分の感覚されるもの以外は知ることができないという考えに徹すると、他人の心なども感覚することはできませんので、他人の存在にさえ懐疑的になり独我論にならざるを得ません。カントはこれを克服しようとしたわけですが、感覚的経験から確実な認識はできないという前提を引きずっているように思われます。

 

 

しかし、人間の認識が感覚的経験に基づくものであるからといって、確実な認識が成り立たないということにはならないはずです。現に人間は外界と関わる経験から帰納的に多くの法則性を導き出し、それらの認識の正しさを自らの活動を通じで検証してきたのです。

 

 

人間は自らの力により、外界を認識しその知識に基づいて外界を変革しているのです。知識に基づいて外界を変革することができるのであれば、認識できない「物自体の真のあり方」などは意味を失ってしまいます。