◆外の世界が存在しない可能性
私たちが、何かが存在すると思うのは、見て、触って、音を聞いて、臭いをかいで、味を見て、そう思っていることは確かです。すべての存在を疑ってみると、結局すべての存在は、自分が感じるということであって、自分の感覚を抜きにしては、それらの存在を確認できないということができます。ですから、自分にとって確実なのは、感覚以外にないと考えると、自分の外の世界は本当に存在するのかという疑問がわきます。
このような考えを徹底すると、「世界は自分の感覚である」ということになり、他人の存在も「自分の感覚」すなわち幻でしかないことになります。このような独我論をを好む人が多いようです。しかし、このような主張を他人にするということは、自己矛盾です。そこで、一見、中立的な立場をとって、自分の外の世界(客観的世界)の存在を否定もせず肯定もしないでお茶を濁そうとします。
◆中立の無意味さ
このような中立的立場には問題があります。
客観的世界が存在するかしないかは2つに1つです。客観的世界が存在しないなら、外の世界に語りかけることは無意味です。客観的世界が存在するなら、他人に対して、お前は俺の感覚に過ぎないなどと独我論を説くことは無意味です。
他人が、この私の存在は、彼の感覚に過ぎないものだと言うならば、そうでないことは、当の私が一番知っており、そのような可能性があるなどと言うことも、その人にとってどうであろうと、私にとってはたわごとでしかありません。
このように、客観的世界が存在しようがしまいが、独我論を説くことは無意味でしかありません。また、そのような中立が妥当性を持ちえるでしょうか。
◆独我論に関する「中立」の非妥当性
また、自分の外の世界が存在するかどうか疑うことはできても、それは外の世界が存在しないという証明にはなっていませんし、そのような証明もできないのです。自分の外の世界が存在しない可能性というのは、頭の中でつくりあげられた架空の可能性でしかありません。それを裏付ける証拠など何一つないのです。
一方、外の世界が存在すると考えるべき根拠は、いくらでもあります。自分の外にある世界の内容が、互いに矛盾せずに私たちの感覚に与えられていること自体が、自分の外にある世界の証明になっています。誰しも毎朝目覚めて外の世界がなかった日は一度もありませんし、夜中に突然目覚めても、やはり外界がります。それでもなお、自分の外にある世界の存在を疑うということは、自分で目をつぶって、「見えない、見えない」と言っているようなものではないでしょうか。
すなわち、客観的世界の存在を裏付ける証拠となる事実は、無限にあるのに対して、客観的世界が存在しない証拠となるものは何もないのです。無限の証拠があるものと、何一つ証拠のないものを、同等に扱って、どちらとも言えないという態度をとることに妥当性はあるのでしょうか。
数学で、0.99999….=1 の証明がありました。客観的世界の存在の確立は「1」ということができます。客観的世界の存在と非存在の間の中立は、確立「1」と「0」を同等に扱うことに他なりません。
◆独我論に関する「中立」の不毛性と非倫理性
いくら証拠があってもそれを認めようとしないのであれば、何も話は進みません。そのような立場を「妥当」とし、客観的世界が存在すると主張することが偏っているとするならば、見えるものについて論ずることも「妥当性」を欠くのではないでしょうか。あくまでも、あるのはあるがままの自分の感覚のみでしかなく、それを自分の感覚と呼ぶことさえ妥当ではないはずです。
あるのはあるがままの自分の感覚のみであるなら、善も悪もありません。このような考えから、建設的な議論も、健全な倫理も何もうまれません。
◆中立を装った独我論の是認
独我論に対して中立に立つことは、独我論の是認に他ならず、正しく考えることの放棄です。そのような無責任な態度が哲学ならば、哲学は無用な学問であるという指摘は当を得ていると思います。
私たちが、何かが存在すると思うのは、見て、触って、音を聞いて、臭いをかいで、味を見て、そう思っていることは確かです。すべての存在を疑ってみると、結局すべての存在は、自分が感じるということであって、自分の感覚を抜きにしては、それらの存在を確認できないということができます。ですから、自分にとって確実なのは、感覚以外にないと考えると、自分の外の世界は本当に存在するのかという疑問がわきます。
このような考えを徹底すると、「世界は自分の感覚である」ということになり、他人の存在も「自分の感覚」すなわち幻でしかないことになります。このような独我論をを好む人が多いようです。しかし、このような主張を他人にするということは、自己矛盾です。そこで、一見、中立的な立場をとって、自分の外の世界(客観的世界)の存在を否定もせず肯定もしないでお茶を濁そうとします。
◆中立の無意味さ
このような中立的立場には問題があります。
客観的世界が存在するかしないかは2つに1つです。客観的世界が存在しないなら、外の世界に語りかけることは無意味です。客観的世界が存在するなら、他人に対して、お前は俺の感覚に過ぎないなどと独我論を説くことは無意味です。
他人が、この私の存在は、彼の感覚に過ぎないものだと言うならば、そうでないことは、当の私が一番知っており、そのような可能性があるなどと言うことも、その人にとってどうであろうと、私にとってはたわごとでしかありません。
このように、客観的世界が存在しようがしまいが、独我論を説くことは無意味でしかありません。また、そのような中立が妥当性を持ちえるでしょうか。
◆独我論に関する「中立」の非妥当性
また、自分の外の世界が存在するかどうか疑うことはできても、それは外の世界が存在しないという証明にはなっていませんし、そのような証明もできないのです。自分の外の世界が存在しない可能性というのは、頭の中でつくりあげられた架空の可能性でしかありません。それを裏付ける証拠など何一つないのです。
一方、外の世界が存在すると考えるべき根拠は、いくらでもあります。自分の外にある世界の内容が、互いに矛盾せずに私たちの感覚に与えられていること自体が、自分の外にある世界の証明になっています。誰しも毎朝目覚めて外の世界がなかった日は一度もありませんし、夜中に突然目覚めても、やはり外界がります。それでもなお、自分の外にある世界の存在を疑うということは、自分で目をつぶって、「見えない、見えない」と言っているようなものではないでしょうか。
すなわち、客観的世界の存在を裏付ける証拠となる事実は、無限にあるのに対して、客観的世界が存在しない証拠となるものは何もないのです。無限の証拠があるものと、何一つ証拠のないものを、同等に扱って、どちらとも言えないという態度をとることに妥当性はあるのでしょうか。
数学で、0.99999….=1 の証明がありました。客観的世界の存在の確立は「1」ということができます。客観的世界の存在と非存在の間の中立は、確立「1」と「0」を同等に扱うことに他なりません。
◆独我論に関する「中立」の不毛性と非倫理性
いくら証拠があってもそれを認めようとしないのであれば、何も話は進みません。そのような立場を「妥当」とし、客観的世界が存在すると主張することが偏っているとするならば、見えるものについて論ずることも「妥当性」を欠くのではないでしょうか。あくまでも、あるのはあるがままの自分の感覚のみでしかなく、それを自分の感覚と呼ぶことさえ妥当ではないはずです。
あるのはあるがままの自分の感覚のみであるなら、善も悪もありません。このような考えから、建設的な議論も、健全な倫理も何もうまれません。
◆中立を装った独我論の是認
独我論に対して中立に立つことは、独我論の是認に他ならず、正しく考えることの放棄です。そのような無責任な態度が哲学ならば、哲学は無用な学問であるという指摘は当を得ていると思います。