我々は肉体を持っているとともに、精神を持っています。精神が存在することは疑う余地はありません。精神の活動は観念を用いて行われています。精神が観念を用いて行われるのですから、精神が存在するのと同じく、観念が存在することも疑う余地はないでしょう。
人間、動物、植物、物体、エネルギーなどそのものは現実的な存在ですが、それらについての概念も観念ですし、神や、肉体を離れた霊なども観念として存在しています。いずれも「観念」として存在していることは確かです。
神や、肉体を離れた霊などが存在するかどうかが問題になるのは、どのような存在に関してのことでしょうか。すでに述べたように、神という観念、肉体を離れた霊という観念が、存在することは争いようがありませんので、「観念」として存在することであれば、争いが生ずる余地はないでしょう。
観念の上では、どのようなものも作ることができます。空想や妄想も観念として存在しています。
観念が存在していることと、「観念の対象そのもの」が存在することとは、明確に区別されなければなりません。神という観念の存在は、神の存在とは区別されなければならないのです。
神の存在を信じる人は、「私は神を信じることにより、生きる喜びを見出した」とか、「非行少年が、神を信じることにより更生した」とか、「神を信じることにより、病気が改善した」とかの例を挙げることがよくあります。しかし、これらは神の力を述べているではなく、神という観念の効用を言っているのではないかと思われます。これらのように、その人が神という観念を抱くことによりどのような利益があっても、神の力が証明されたわけではなく、神が存在することが証明されたわけでもありません。
あくまでも「観念」の存在と、「観念の対象そのもの」の存在とは区別されなければならないのです。
人間、動物、植物、物体、エネルギーなどそのものは現実的な存在ですが、それらについての概念も観念ですし、神や、肉体を離れた霊なども観念として存在しています。いずれも「観念」として存在していることは確かです。
神や、肉体を離れた霊などが存在するかどうかが問題になるのは、どのような存在に関してのことでしょうか。すでに述べたように、神という観念、肉体を離れた霊という観念が、存在することは争いようがありませんので、「観念」として存在することであれば、争いが生ずる余地はないでしょう。
観念の上では、どのようなものも作ることができます。空想や妄想も観念として存在しています。
観念が存在していることと、「観念の対象そのもの」が存在することとは、明確に区別されなければなりません。神という観念の存在は、神の存在とは区別されなければならないのです。
神の存在を信じる人は、「私は神を信じることにより、生きる喜びを見出した」とか、「非行少年が、神を信じることにより更生した」とか、「神を信じることにより、病気が改善した」とかの例を挙げることがよくあります。しかし、これらは神の力を述べているではなく、神という観念の効用を言っているのではないかと思われます。これらのように、その人が神という観念を抱くことによりどのような利益があっても、神の力が証明されたわけではなく、神が存在することが証明されたわけでもありません。
あくまでも「観念」の存在と、「観念の対象そのもの」の存在とは区別されなければならないのです。