善と悪とが対照され、正義と悪が同様に対照されることからもわかるように、正義とは社会的な善にほかなりません。善とは価値を与えることであり、それは誰にとっての価値かというと、人間にとっての価値です。私たちは害虫や病原菌の立場に立って善悪を論ずることはできません。
それでは人間にとっての価値とは、人間という種にとっての価値か、それとも国なのか、民族なのか、家なのかということになるのですが、過去の歴史上の誤りは、宗教や神を価値とするものを含め、個人にとっての価値即ち幸福から乖離することによって繰返されてきたと思います。社会を構成しているのは個人であり、それぞれの個人の幸福を基礎にしてスタートする必要があります。
幸福とは刹那的な快楽ではなく、それをも含む大きな視野から見た「生きる喜び」だと思います。功利主義に近いと言えば近いかも知れませんが、功利主義というと、個人を離れ、個人を無視した、社会にとっての最大多数の最大幸福を論ずるベンサムなどの思想に結びついてしまいます。私の考えは言わば個人尊重の功利主義ということになるのかもしれません。
個人の幸福は尊重されなければなりませんが、一方では、個人は、社会における個人であり、個人の利益を無制限に認めるわけにはいきません。そこでこれを調和に導くことが必要になります。個人の幸福と社会との調和を追及するすることが、社会的な善であり、正義ではないかと思います。このような尺度を基本にすれば、不可知論に陥る必要もなく、大きな誤りは犯さないのではないかと思っています。
それでは人間にとっての価値とは、人間という種にとっての価値か、それとも国なのか、民族なのか、家なのかということになるのですが、過去の歴史上の誤りは、宗教や神を価値とするものを含め、個人にとっての価値即ち幸福から乖離することによって繰返されてきたと思います。社会を構成しているのは個人であり、それぞれの個人の幸福を基礎にしてスタートする必要があります。
幸福とは刹那的な快楽ではなく、それをも含む大きな視野から見た「生きる喜び」だと思います。功利主義に近いと言えば近いかも知れませんが、功利主義というと、個人を離れ、個人を無視した、社会にとっての最大多数の最大幸福を論ずるベンサムなどの思想に結びついてしまいます。私の考えは言わば個人尊重の功利主義ということになるのかもしれません。
個人の幸福は尊重されなければなりませんが、一方では、個人は、社会における個人であり、個人の利益を無制限に認めるわけにはいきません。そこでこれを調和に導くことが必要になります。個人の幸福と社会との調和を追及するすることが、社会的な善であり、正義ではないかと思います。このような尺度を基本にすれば、不可知論に陥る必要もなく、大きな誤りは犯さないのではないかと思っています。