◆すべてを疑うこと

 私たちが、何かが存在すると思うのは、見て、触って、音を聞いて、臭いをかいで、味を見て、そう思っていることは確かです。すべての存在を疑ってみると、結局すべての存在は、自分が感じるということであって、自分の感覚を抜きにしては、それらの存在を確認できないということができます。ですから、自分にとって確実なのは、感覚以外にないと考えると、自分の外の世界は本当に存在するのかという疑問がわきます。確かに、自分に見えている世界が幻でないという証明はできないように思われます。というよりも、そこまで疑うと証明の手段もないのです。

  夢の中でもいろいろなものを見たり聞いたりし、それが現実だと思っていますが、目が覚めてから、それらは自分の意識の中にしかなかったことに気づきます。目が覚めて現実だと思っていることが、はたして幻でないといいきれるのかと、考えますと、確かにそのような証明はできません。目が覚めたと思っていたらそれも夢だったという夢を見たことも、現に私自身あります。

◆他人の存在

  そこで重要なことは、自分の外にある世界の存在を疑うということは、すべての人々の存在も一緒に疑わなければならないということです。私たちが、自分以外の人々が存在すると思うのは、その人を見たり、その人の話しを聞いたり、触れたりすることによって、その人がいると思っているにすぎません。

  いまあなたは、あなたの人生を哲学的に考えようとしているわけです。そのあなたの人生を考えるということは、あなたの感覚だけの世界について考えることなのでしょうか。そうではなくて、あなたが悩みながら解答を得ようとしているのは、他でもない、あなたが現に生きていて、自分以外の人々が存在している世界との関わり方に関するものではないでしょうか。私たちの考えるべき人生は、自分以外の人々が存在するという前提の中での人生ではないでしょうか。

◆すべての存在を疑うことの空しさ

  親兄弟や友達、職場の人々に向って、「あなたの存在が哲学的に確信できない」と言うことにどのような意義があるのでしょう。また、一切の人々の存在しない空虚な世界において、人生や真理を想定することにどのような意義があるのでしょう。

  さらに重要なことは、あなたの外の世界が存在するかどうか疑うことはできても、それは外の世界が存在しないという証明にはなっていませんし、そのような証明もできないということです。あなたの外の世界が存在しない可能性というのは、頭の中でつくりあげられた架空の可能性でしかありません。それを裏付ける証拠など何一つないのです。人間には、感覚から得た情報を総合することによってしか、物事の存在を確認する手段がないのです。その唯一の手段を疑ってしまうと何も確認できないことは当たり前のことです。

  一方、外の世界が存在すると考えるべき根拠は、いくらでもあります。自分の外にある世界の内容が、互いに矛盾せずに私たちの感覚に与えられていること自体が、自分の外にある世界の証明になっています。誰しも毎朝目覚めて外の世界がなかった日は一度もありませんし、夜中に突然目覚めても、やはり外界がります。それでもなお、自分の外にある世界の存在を疑うということは、自分で目をつぶって、「見えない、見えない」と言っているようなものではないでしょうか。