現実にある物事は、ダイナミックなあり方をしており、変化し発展し続けています。
物事を固定的にとらえる見方では、現実の本質をとらえることはできません。本質を不変のものとし、事物を固定的にとらえる見方を、ヘーゲルという哲学者は、「形而上学」として批判しました。
◆形式論理学の固定性
形式論理学をそのまま哲学的な見方に適用すると「形而上学」の典型になります。形式論理学には3つの公理があります。同一律、矛盾律、排中律といわれるものです。同一律とは、「AはAである」ということです。無矛盾律とは、「Aは非Aではない」ということで、「Aは非Aである」は矛盾として排除されます。排中律とは「すべてのものはAか非Aである」ということです。これらはいずれもAが非AであるBになったりすると困るということです。しかし、現実において、絶えず事物が変化しており、変化するということは、「Aが非Aになる」ということにほかなりません。変化が入ってくると、形式論理学ではうまく対応できないことになります。
◆弁証法的矛盾
弁証法は、事物は絶えざる運動、変化、発展の過程にあるものとしてとらえ、その構造を理解するための哲学だということができます。そして運動や変化の背後にあるものが、「弁証法的矛盾」といわれるものです。
例えば、人間が生きるということは、人間が運動し変化するということです。その背後には、生と死という対立する側面があります。生きている人体内では、絶えず、新しい細胞が生まれ、古い細胞が死んでいます。また生きるということにより、死に近づいていきます。このように生と死は、互いに排斥する関係にありながら、人間の生は死に依存して成り立っています。人間にとって、このような生と死の対立関係がなくなるのは、死んでしまってからです。
このような生と死の関係は、弁証法的矛盾の関係にあります。生は死とはことなる概念ですが、「生は生である」「生は死ではない」と言い切れるような単純な関係ではなく、またこのような弁証法的矛盾は単純な論理的矛盾とも異なるものであることがお分かりいただけると思います。
◆弁証法的矛盾と発展
発展とは単なる変化ではなく、不完全なものがより完全なものになったり、単純なものがより高次の複雑なものになったりする変化のことを言います。発展においても、弁証法的矛盾が重要な意味を持っています。
マルクスの思想は、東欧社会主義の崩壊によって、誤った過去の産物と見る人々がいますが、事物の発展に関する彼の唯物弁証法哲学は学ぶべきところがいくらでもあります。例えば「資本論」の、商品の分析と商品流通の発展の説明は、弁証法に基づいています。簡単にご紹介します。
商品には二つの側面があります。ひとつは使用価値であり、もうひとつは交換価値です。人々が商品を求めるのは、商品が使用価値を持っているからです。一方、商品の流通は交換価値に基づいています。交換価値は、その商品をつくるための労力と考えてよいでしょう。簡単に作れて高く売れるものがあったとしても、すぐに真似をする者があらわれますので、自然にしかるべきところに落ち着きます。
しかし、交換価値が同じであれば商品が流通するわけではありません。品物の流通は物々交換から始まりましたが、交換するには、交換しあう当事者それぞれの求める使用価値が相手の商品と一致しなければなりません。その意味では使用価値と交換価値は、商品において依存しあいながらも、互いに排斥しあう関係にあります。そこで使用価値と交換価値の対立を克服するものとして、貨幣が現れます。
貨幣は最終的には金や銀になりましたが、最初塩であったり、米であったり、それ自体様々な商品でした。これらの貨幣となった商品は、多数の人々が欲しがる使用価値をもち、しかも、劣化しにくいことが条件でした。このような性質をもつ商品が、使用価値と交換価値の対立を克服する貨幣へと発展したのです。さらに貨幣の出現は、流通システムの発展をもたらします。このような発展は、商品の内部にある使用価値と交換価値の対立関係がもたらす必然的な発展であり、どの社会でも同じような道筋をたどっています。
このように事物の内部にある対立である弁証法的矛盾をとらえることにより、その必然的発展の方向性をとらえることができます。弁証法的矛盾がどのようなものからなるかは、問題によっても変わってきますので、その都度現実に即して理解する必要があります。
物事を固定的にとらえる見方では、現実の本質をとらえることはできません。本質を不変のものとし、事物を固定的にとらえる見方を、ヘーゲルという哲学者は、「形而上学」として批判しました。
◆形式論理学の固定性
形式論理学をそのまま哲学的な見方に適用すると「形而上学」の典型になります。形式論理学には3つの公理があります。同一律、矛盾律、排中律といわれるものです。同一律とは、「AはAである」ということです。無矛盾律とは、「Aは非Aではない」ということで、「Aは非Aである」は矛盾として排除されます。排中律とは「すべてのものはAか非Aである」ということです。これらはいずれもAが非AであるBになったりすると困るということです。しかし、現実において、絶えず事物が変化しており、変化するということは、「Aが非Aになる」ということにほかなりません。変化が入ってくると、形式論理学ではうまく対応できないことになります。
◆弁証法的矛盾
弁証法は、事物は絶えざる運動、変化、発展の過程にあるものとしてとらえ、その構造を理解するための哲学だということができます。そして運動や変化の背後にあるものが、「弁証法的矛盾」といわれるものです。
例えば、人間が生きるということは、人間が運動し変化するということです。その背後には、生と死という対立する側面があります。生きている人体内では、絶えず、新しい細胞が生まれ、古い細胞が死んでいます。また生きるということにより、死に近づいていきます。このように生と死は、互いに排斥する関係にありながら、人間の生は死に依存して成り立っています。人間にとって、このような生と死の対立関係がなくなるのは、死んでしまってからです。
このような生と死の関係は、弁証法的矛盾の関係にあります。生は死とはことなる概念ですが、「生は生である」「生は死ではない」と言い切れるような単純な関係ではなく、またこのような弁証法的矛盾は単純な論理的矛盾とも異なるものであることがお分かりいただけると思います。
◆弁証法的矛盾と発展
発展とは単なる変化ではなく、不完全なものがより完全なものになったり、単純なものがより高次の複雑なものになったりする変化のことを言います。発展においても、弁証法的矛盾が重要な意味を持っています。
マルクスの思想は、東欧社会主義の崩壊によって、誤った過去の産物と見る人々がいますが、事物の発展に関する彼の唯物弁証法哲学は学ぶべきところがいくらでもあります。例えば「資本論」の、商品の分析と商品流通の発展の説明は、弁証法に基づいています。簡単にご紹介します。
商品には二つの側面があります。ひとつは使用価値であり、もうひとつは交換価値です。人々が商品を求めるのは、商品が使用価値を持っているからです。一方、商品の流通は交換価値に基づいています。交換価値は、その商品をつくるための労力と考えてよいでしょう。簡単に作れて高く売れるものがあったとしても、すぐに真似をする者があらわれますので、自然にしかるべきところに落ち着きます。
しかし、交換価値が同じであれば商品が流通するわけではありません。品物の流通は物々交換から始まりましたが、交換するには、交換しあう当事者それぞれの求める使用価値が相手の商品と一致しなければなりません。その意味では使用価値と交換価値は、商品において依存しあいながらも、互いに排斥しあう関係にあります。そこで使用価値と交換価値の対立を克服するものとして、貨幣が現れます。
貨幣は最終的には金や銀になりましたが、最初塩であったり、米であったり、それ自体様々な商品でした。これらの貨幣となった商品は、多数の人々が欲しがる使用価値をもち、しかも、劣化しにくいことが条件でした。このような性質をもつ商品が、使用価値と交換価値の対立を克服する貨幣へと発展したのです。さらに貨幣の出現は、流通システムの発展をもたらします。このような発展は、商品の内部にある使用価値と交換価値の対立関係がもたらす必然的な発展であり、どの社会でも同じような道筋をたどっています。
このように事物の内部にある対立である弁証法的矛盾をとらえることにより、その必然的発展の方向性をとらえることができます。弁証法的矛盾がどのようなものからなるかは、問題によっても変わってきますので、その都度現実に即して理解する必要があります。