弁証法というと矛盾、対立物の闘争、否定の否定、などの言葉が好んで使われます。私自身は極めて大雑把な人間で細かい区別などにはこだわらない方なのですが、弁証法哲学におけるこれらの言葉の使い方には注意が必要だと思います。
弁証法的論理学では、典型的なカテゴリとして、本質と現象、必然と偶然、質と量、内容と形式、原因と結果、内面と外面、普遍と特殊、など取り上げます。これらは対立する概念のように見えますが、それらの間には密接な関連があります。その意味では、現実世界の物事は「Aか非Aのいずれかである」とは言えません。
「Aか非Aのいずれかである」とは言えないというのは、一見論理的矛盾に思われます。しかし、例えば本質と現象との関係について、本質は現象を支配するものであり、現象に現れなければ、本質とは言えません。現象についても、現象だけの現象というものはなく、現象の背後には本質が貫かれています。このような説明は、形式論理学の基本原則「本質は本質であって非本質ではない」では説明しきれない点を補うものですが、その説明は論理的矛盾ではありません。
弁証法においては「矛盾」という概念が、その都度明確に定義されることなく使われることがありますが、弁証法的アプローチを論理的矛盾と混同するような説明の仕方は人々を混乱させ、弁証法の本来の意義を誤解させるものだと思います。
また先のようなカテゴリや概念の内的連関は、「生産力と生産関係との矛盾」や「階級闘争」などとは明らかに異なるもののように思われます。確かに、概念は実在を反映する観念ですので概念における内的連関は、実在における相互関係や対立関係を反映するものであるかも知れません。しかし、厳密な吟味もなく、機械的に「矛盾」や「対立物の闘争」という枠組みを当てはめることは、認識を誤る原因となると思います。
弁証法的論理学では、典型的なカテゴリとして、本質と現象、必然と偶然、質と量、内容と形式、原因と結果、内面と外面、普遍と特殊、など取り上げます。これらは対立する概念のように見えますが、それらの間には密接な関連があります。その意味では、現実世界の物事は「Aか非Aのいずれかである」とは言えません。
「Aか非Aのいずれかである」とは言えないというのは、一見論理的矛盾に思われます。しかし、例えば本質と現象との関係について、本質は現象を支配するものであり、現象に現れなければ、本質とは言えません。現象についても、現象だけの現象というものはなく、現象の背後には本質が貫かれています。このような説明は、形式論理学の基本原則「本質は本質であって非本質ではない」では説明しきれない点を補うものですが、その説明は論理的矛盾ではありません。
弁証法においては「矛盾」という概念が、その都度明確に定義されることなく使われることがありますが、弁証法的アプローチを論理的矛盾と混同するような説明の仕方は人々を混乱させ、弁証法の本来の意義を誤解させるものだと思います。
また先のようなカテゴリや概念の内的連関は、「生産力と生産関係との矛盾」や「階級闘争」などとは明らかに異なるもののように思われます。確かに、概念は実在を反映する観念ですので概念における内的連関は、実在における相互関係や対立関係を反映するものであるかも知れません。しかし、厳密な吟味もなく、機械的に「矛盾」や「対立物の闘争」という枠組みを当てはめることは、認識を誤る原因となると思います。