◆形式論理学の限界
形式論理学は要するに集合論みたいなもので、内容に関しては無関心で、形式のみに関する理論だということができると思います。形式論理学は、「AならばBである」「BならばCである」から、「AならばCである」を導き出す三段論法に代表されます。前提である「AならばBである」や「BならばCである」が正しくないと、「AならばCである」も正しくないことになります。
また、形式論理学には排中律といって「Aか非Aのいずれかである」という前提があるわけです。即ちデジタル的枠組みから成立っています。しかし、現実は、そのように簡単に白黒をつけることはできません。現実世界そのものが複雑で豊かなあり方をしていますから、現実のあらゆる側面を議論するためには、白黒と形式だけの論理では不充分ということができます。
◆弁証法的論理学
一方、形式論理学に対して弁証法的論理学というものもあります。残念ながら、弁証法的論理学は、まだまだ体系化されていないようです。弁証法的論理学は、形式論理学で扱うことができないアナログ的な複雑な側面を補うものということができます。形式論理学と異なり、その性格を一言で説明することはむずかしく、哲学そのものが論理学のようなところがあります。例を挙げた方が分かりやすいかもしれません。
弁証法的論理学で取り上げる典型的なカテゴリとしては、本質と現象、必然と偶然、質と量、内容と形式、原因と結果、内面と外面、普遍と特殊、などがあります。これらは対立する概念のように見えますが、後で説明するように、それらの間には密接な関連があります。現実世界の物事は「Aか非Aのいずれかである」とは言えないのです。
これらのカテゴリに関わらず、様々なカテゴリや概念について、内的連関をありのままに把握します。後で例を示しますが、これらは単なる言葉の遊びではなく、現実に一層深く踏み込んで関係をとらえるものであるということができます。このようなカテゴリの関係を、その情況に応じて把握し、論理の根拠とします。これらカテゴリの関係を適用することにより説得力を持つことができるのは、これらカテゴリの内的連関が現実を反映することによると言うことができます。カテゴリの例を簡単に見てみましょう。
◆本質と現象
本質とは「あるものをそのものとして成立たせている性質」です。現象とは「観察され得るあらゆる事実」です。本質は直接見ることができませんので、私たちが見ているのはすべて現象だということができます。私たちが物事の本質を知ることができるのは、現象を通じてのみです。本質ではなく、むしろ反対概念である現象を見ることによって本質を知ることができるのはなぜでしょう。それは本質が現象するものだからです。本質は現象に現れなければ、本質とは言えません。現象についても、現象だけの現象というものはなく、現象の背後には本質が貫かれているということができます。
◆必然と偶然
必然とは、必ずそうなるとか、そうなったということで、偶然とは、そうなるとは限らず、たまたまそうなるとか、そうなったということです。自然法則などは必然性を持っています。自然界には自然法則が貫いており、その観点では必然性が支配しているということができます。しかし、一方では、自然界においても、あらゆる出来事は偶然に起こっているといっても過言ではありません。
自然法則が現れるためには、多かれ少なかれ偶然性が関与するということができます。わかりやすい例としてサイコロを考えてみましょう。サイコロの目はどれも6分の1の確率です。しかし、6つの目が6分の1づつ出てくるわけにはいきません。また、それぞれの目がいつ出てくるかもわかりません。6回ふれば1通り出てくるわけでもありません。サイコロをふる1回ごとは、偶然です。しかし、多数回ふると、それぞれの目はふった回数かける6分の1の回数出るようになっていきます。ここでは6分の1の確率という必然性は偶然性をとおして現れており、その必然性は偶然性なしでは現れることさえできません。
◆質と量
質は量に媒介され、量的変化により質的変化に至る。色が質であるとするならば、これは光の波長によって媒介されており、波長が変われば色も変わります。また氷か水か水蒸気かという質は、熱エネルギという量的なものに媒介されています。
氷点下の氷は徐々に熱エネルギを加えても、最初は氷のまま温度上昇という量的変化を続けるだけですが、融点に至ると量的変化に止まらず、氷から水への質的変化が起こります。水になってから熱エネルギを加えつづけると、再び温度上昇という量的変化を続けるだけですが、沸点に至ると量的変化に止まらず、水から水蒸気への質的変化が起こります。このように質を規定するものの量的変化は、ある段階で質的変化に転化します。
◆内容と形式
内容とは、中身のことであり、例えば手紙を例にすると、ラブレターであったり、借金の依頼であったり、苦情を伝えるものであったり、伝えたい気持ちが内容です。形式とは、その内容のもつ形です。手紙の例でいうと、便箋の色や紙質、文章は手書きかワープロかはもちろん形式です。さらに伝えたいことをどのような文体で伝えるかということも形式ということができます。
内容と形式は独立したもので両者は影響を及ぼしあわないように思えます。しかし、文章の中身に関することでも、どのような順序で話を進めるかも、見方によると、形式的なものということができます。このように考えると、内容と形式は必ずしもはっきり区別できるとはかぎりません。
また、形式が内容を持つこともあります。例えば、名文のラブレターを、センスの良い便箋と封筒で送るのと、チラシの裏を使ったもので送るのとでは、同じ内容を持つと言えるでしょうか。内容は形式を伴い、形式は内容の部分をなすということができます。
◆原因と結果
因果関係とはいうまでもなく、原因と結果の関係です。原因は結果を生み出します。しかし、原因と結果を固定的にとらえることはできません。ある原因は、それ以前の出来事を原因とする結果ですし、結果は将来に別の結果を生み出す原因であるからです。現実の世界は、原因と結果という形で閉じているわけではありません。むしろ、継ぎ目なく連続する現実世界の中から、人間がある部分を切り取って分析して、原因と結果の関係として認識しているのです。また、原因は結果があるからこそ原因となることができ、結果は原因があるからこそ結果になることができるのです。
◆内的原因と外的原因
因果関係を考えるにあたって、もうひとつ重要なことは、原因には内的原因と外的原因があるということです。植物の種は、その内的原因として、発芽し生長する可能性を持っています。しかしそれだけでは、種は発芽しません。適当な水分や温度や空気が与えられてこそ、発芽することができ、養分や日光が与えられてこそ植物として成長することができます。このような与えられる環境が外的原因です。
原因を内的原因と外的原因に分けて考えることは非常に大切です。人間に関して、内的原因は素質や性格であり、外的原因は育ちや境遇です。これらが組み合わさって、人間が成長し形成されていきます。似たような境遇(外的原因)が与えられても、人によって対応が異なるのは、素質や性格(内的原因)が異なるからです。
人間をとらえる場合、内的原因は必ずしも遺伝子的素質だけを意味するわけではありません。個人の現在の性格や人格は、遺伝子的素質とともに、現在に至る育ちや境遇により形成されてきたものです。したがって、個人を固定的にとらえることはできません。経験は人を変えます。内的原因である素質や性格が、たえず外的原因である境遇と結びついて次の内的原因である人格へと発展しつづけ、新たな境遇にめぐり会い続けます。このようなあり方は、すべてのもののあり方に通じます。すべてのものは他のものとの関わりのなかで、絶えず発展しているのです。
◆弁証法的論理学の適用
弁証法的論理学のカテゴリの例をいくつか見てみましたが、これらのカテゴリに関わらず、すべての対立するカテゴリや概念は、単純に対立するものではなく、互いに何らかの内的連関を持っています。このようなカテゴリや概念の内的連関をとらえ、議論する問題の情況に応じて、そのような関係を把握し、論理の根拠とすることによって、形式論理学的な白か黒かの議論ではなく、現実に即した議論を発展させることができます。また物事の本質に迫る説得力を持つことができるのではないかと思います。
形式論理学は要するに集合論みたいなもので、内容に関しては無関心で、形式のみに関する理論だということができると思います。形式論理学は、「AならばBである」「BならばCである」から、「AならばCである」を導き出す三段論法に代表されます。前提である「AならばBである」や「BならばCである」が正しくないと、「AならばCである」も正しくないことになります。
また、形式論理学には排中律といって「Aか非Aのいずれかである」という前提があるわけです。即ちデジタル的枠組みから成立っています。しかし、現実は、そのように簡単に白黒をつけることはできません。現実世界そのものが複雑で豊かなあり方をしていますから、現実のあらゆる側面を議論するためには、白黒と形式だけの論理では不充分ということができます。
◆弁証法的論理学
一方、形式論理学に対して弁証法的論理学というものもあります。残念ながら、弁証法的論理学は、まだまだ体系化されていないようです。弁証法的論理学は、形式論理学で扱うことができないアナログ的な複雑な側面を補うものということができます。形式論理学と異なり、その性格を一言で説明することはむずかしく、哲学そのものが論理学のようなところがあります。例を挙げた方が分かりやすいかもしれません。
弁証法的論理学で取り上げる典型的なカテゴリとしては、本質と現象、必然と偶然、質と量、内容と形式、原因と結果、内面と外面、普遍と特殊、などがあります。これらは対立する概念のように見えますが、後で説明するように、それらの間には密接な関連があります。現実世界の物事は「Aか非Aのいずれかである」とは言えないのです。
これらのカテゴリに関わらず、様々なカテゴリや概念について、内的連関をありのままに把握します。後で例を示しますが、これらは単なる言葉の遊びではなく、現実に一層深く踏み込んで関係をとらえるものであるということができます。このようなカテゴリの関係を、その情況に応じて把握し、論理の根拠とします。これらカテゴリの関係を適用することにより説得力を持つことができるのは、これらカテゴリの内的連関が現実を反映することによると言うことができます。カテゴリの例を簡単に見てみましょう。
◆本質と現象
本質とは「あるものをそのものとして成立たせている性質」です。現象とは「観察され得るあらゆる事実」です。本質は直接見ることができませんので、私たちが見ているのはすべて現象だということができます。私たちが物事の本質を知ることができるのは、現象を通じてのみです。本質ではなく、むしろ反対概念である現象を見ることによって本質を知ることができるのはなぜでしょう。それは本質が現象するものだからです。本質は現象に現れなければ、本質とは言えません。現象についても、現象だけの現象というものはなく、現象の背後には本質が貫かれているということができます。
◆必然と偶然
必然とは、必ずそうなるとか、そうなったということで、偶然とは、そうなるとは限らず、たまたまそうなるとか、そうなったということです。自然法則などは必然性を持っています。自然界には自然法則が貫いており、その観点では必然性が支配しているということができます。しかし、一方では、自然界においても、あらゆる出来事は偶然に起こっているといっても過言ではありません。
自然法則が現れるためには、多かれ少なかれ偶然性が関与するということができます。わかりやすい例としてサイコロを考えてみましょう。サイコロの目はどれも6分の1の確率です。しかし、6つの目が6分の1づつ出てくるわけにはいきません。また、それぞれの目がいつ出てくるかもわかりません。6回ふれば1通り出てくるわけでもありません。サイコロをふる1回ごとは、偶然です。しかし、多数回ふると、それぞれの目はふった回数かける6分の1の回数出るようになっていきます。ここでは6分の1の確率という必然性は偶然性をとおして現れており、その必然性は偶然性なしでは現れることさえできません。
◆質と量
質は量に媒介され、量的変化により質的変化に至る。色が質であるとするならば、これは光の波長によって媒介されており、波長が変われば色も変わります。また氷か水か水蒸気かという質は、熱エネルギという量的なものに媒介されています。
氷点下の氷は徐々に熱エネルギを加えても、最初は氷のまま温度上昇という量的変化を続けるだけですが、融点に至ると量的変化に止まらず、氷から水への質的変化が起こります。水になってから熱エネルギを加えつづけると、再び温度上昇という量的変化を続けるだけですが、沸点に至ると量的変化に止まらず、水から水蒸気への質的変化が起こります。このように質を規定するものの量的変化は、ある段階で質的変化に転化します。
◆内容と形式
内容とは、中身のことであり、例えば手紙を例にすると、ラブレターであったり、借金の依頼であったり、苦情を伝えるものであったり、伝えたい気持ちが内容です。形式とは、その内容のもつ形です。手紙の例でいうと、便箋の色や紙質、文章は手書きかワープロかはもちろん形式です。さらに伝えたいことをどのような文体で伝えるかということも形式ということができます。
内容と形式は独立したもので両者は影響を及ぼしあわないように思えます。しかし、文章の中身に関することでも、どのような順序で話を進めるかも、見方によると、形式的なものということができます。このように考えると、内容と形式は必ずしもはっきり区別できるとはかぎりません。
また、形式が内容を持つこともあります。例えば、名文のラブレターを、センスの良い便箋と封筒で送るのと、チラシの裏を使ったもので送るのとでは、同じ内容を持つと言えるでしょうか。内容は形式を伴い、形式は内容の部分をなすということができます。
◆原因と結果
因果関係とはいうまでもなく、原因と結果の関係です。原因は結果を生み出します。しかし、原因と結果を固定的にとらえることはできません。ある原因は、それ以前の出来事を原因とする結果ですし、結果は将来に別の結果を生み出す原因であるからです。現実の世界は、原因と結果という形で閉じているわけではありません。むしろ、継ぎ目なく連続する現実世界の中から、人間がある部分を切り取って分析して、原因と結果の関係として認識しているのです。また、原因は結果があるからこそ原因となることができ、結果は原因があるからこそ結果になることができるのです。
◆内的原因と外的原因
因果関係を考えるにあたって、もうひとつ重要なことは、原因には内的原因と外的原因があるということです。植物の種は、その内的原因として、発芽し生長する可能性を持っています。しかしそれだけでは、種は発芽しません。適当な水分や温度や空気が与えられてこそ、発芽することができ、養分や日光が与えられてこそ植物として成長することができます。このような与えられる環境が外的原因です。
原因を内的原因と外的原因に分けて考えることは非常に大切です。人間に関して、内的原因は素質や性格であり、外的原因は育ちや境遇です。これらが組み合わさって、人間が成長し形成されていきます。似たような境遇(外的原因)が与えられても、人によって対応が異なるのは、素質や性格(内的原因)が異なるからです。
人間をとらえる場合、内的原因は必ずしも遺伝子的素質だけを意味するわけではありません。個人の現在の性格や人格は、遺伝子的素質とともに、現在に至る育ちや境遇により形成されてきたものです。したがって、個人を固定的にとらえることはできません。経験は人を変えます。内的原因である素質や性格が、たえず外的原因である境遇と結びついて次の内的原因である人格へと発展しつづけ、新たな境遇にめぐり会い続けます。このようなあり方は、すべてのもののあり方に通じます。すべてのものは他のものとの関わりのなかで、絶えず発展しているのです。
◆弁証法的論理学の適用
弁証法的論理学のカテゴリの例をいくつか見てみましたが、これらのカテゴリに関わらず、すべての対立するカテゴリや概念は、単純に対立するものではなく、互いに何らかの内的連関を持っています。このようなカテゴリや概念の内的連関をとらえ、議論する問題の情況に応じて、そのような関係を把握し、論理の根拠とすることによって、形式論理学的な白か黒かの議論ではなく、現実に即した議論を発展させることができます。また物事の本質に迫る説得力を持つことができるのではないかと思います。