◆科学的世界観は決定論か
決定論とは、物質の運動は、自然法則に従っており、宇宙の誕生から終末までの運動はビッグバンの時点ですでに決まっているというように考えます。このような考えは科学的な見方に徹底しているように見えます。しかし、科学的世界観と決定論は、必然的に結びつくものでしょうか。もしそうならば、決定論を否定するためには科学的世界観を捨てなければならないことになります。
◆物質は能動的に運動する
私は、科学的世界観と決定論は必然的に結びつくものではないと思います。これらが必然的に結びつくと考えるのは、要するに物質を受動的存在ととらえるところに問題があると思います。
ボールやイスのような物体は、能動性や主体性を持っていないように見えます。しかし、宇宙を考えてみても、宇宙が大爆発(ビッグバン)で誕生して以来、物質は自らの力で運動を続けてきましたし、宇宙では今もダイナミックな星の誕生や消滅がたえずくり返されています。このような運動は、誰の意志が介在することなく、物質のみによって起こっています。
原子や素粒子の世界をみても、すべてのものは、ものすごいスピードで運動したり振動したりしており、静止しているものはほとんどありません。このような物質のあり方を見ると、物質は本来自発的に動くものだということができるのではないでしょうか。
身の回りにある物体が能動性や主体性を持って運動することがないので、物質一般を静的な受動的なものと誤解したために、受動的な「物質」という概念が生まれたにすぎません。静止している物体でさえ、それを形成している分子や原子レベルで見ると運動したり振動したりしています。静的な物体が物質の代表ではなく、動的な原子や、星などがむしろ物質を代表するものだと思います。
◆物質は機械的因果関係で運動するのではない
物質の運動は自然法則に従っていますが、機械的な因果律に従う運動をしているわけではありません。 例えば核分裂性の物質の原子を見てもどの原子がいつ分裂するかは予測できませんし、また素粒子は波動としての性質と粒子としての性質を併せ持っております。物体に関しても、同じ光を照射しても、結果は物質によって異なっております。あるものは熱を発し、あるものは電位を発生し、あるものは青い光を発し、あるものは赤い光を発する。これらは、物質が単に機械的に反応しているのではなく、物質の原始的な能動性の現われだということができるのではないでしょうか。
◆能動性の組織化と高度組織化
物質から、精神考えるのではなく、人間の脳や精神を考えて、人間の脳が主体性能動性を持っていることをまず認識し、これが、複雑に組織化された物質の働きであると考えてみます。そして、人間の脳と原子を比較した場合、原子は原子としての能動性を持っているし、それしか持っていないと言うことができます。原子のもつ能動性は、殆ど見えない能動性であり、その運動は単なる法則に従った運動にしか見えないかも知れません。しかしそこでも能動性はゼロではありません。それは原子そのものが小さくて見えないけど、その大きさと質量がゼロでないのと同じです。
そのような原子がもつ能動性が、単細胞生物としての能動性へと組織化され、さらに高等動物の能動性に高度に組織化されて、人間の精神のような高度の能動性と主体性が発揮されていると考えることができます。
「人間の脳もイスと同じで、能動性は存在しない」のではなく、むしろ「イスを作っている物質も、人間の脳を作っている物質と同じように能動性がないわけではないが、それが認識される形に組織化されていない」と考えるわけです。能動性が組織されているかどうかが、大きな違いを生みますし、単細胞生物のように低次の組織化と、人間の脳のような高度に組織化されたものとはまったく別のレベルであると言うことができます。
能動性を備えた全ての存在の集合体としての全宇宙は、決して機械的な因果律に従って運動しているわけではありません。ヘーゲルの絶対理念としての神もそのようなものに近いのではないかと思います。しかし、私には、そのような存在を敢えて神と呼ぶ必要もないように思われます。
決定論とは、物質の運動は、自然法則に従っており、宇宙の誕生から終末までの運動はビッグバンの時点ですでに決まっているというように考えます。このような考えは科学的な見方に徹底しているように見えます。しかし、科学的世界観と決定論は、必然的に結びつくものでしょうか。もしそうならば、決定論を否定するためには科学的世界観を捨てなければならないことになります。
◆物質は能動的に運動する
私は、科学的世界観と決定論は必然的に結びつくものではないと思います。これらが必然的に結びつくと考えるのは、要するに物質を受動的存在ととらえるところに問題があると思います。
ボールやイスのような物体は、能動性や主体性を持っていないように見えます。しかし、宇宙を考えてみても、宇宙が大爆発(ビッグバン)で誕生して以来、物質は自らの力で運動を続けてきましたし、宇宙では今もダイナミックな星の誕生や消滅がたえずくり返されています。このような運動は、誰の意志が介在することなく、物質のみによって起こっています。
原子や素粒子の世界をみても、すべてのものは、ものすごいスピードで運動したり振動したりしており、静止しているものはほとんどありません。このような物質のあり方を見ると、物質は本来自発的に動くものだということができるのではないでしょうか。
身の回りにある物体が能動性や主体性を持って運動することがないので、物質一般を静的な受動的なものと誤解したために、受動的な「物質」という概念が生まれたにすぎません。静止している物体でさえ、それを形成している分子や原子レベルで見ると運動したり振動したりしています。静的な物体が物質の代表ではなく、動的な原子や、星などがむしろ物質を代表するものだと思います。
◆物質は機械的因果関係で運動するのではない
物質の運動は自然法則に従っていますが、機械的な因果律に従う運動をしているわけではありません。 例えば核分裂性の物質の原子を見てもどの原子がいつ分裂するかは予測できませんし、また素粒子は波動としての性質と粒子としての性質を併せ持っております。物体に関しても、同じ光を照射しても、結果は物質によって異なっております。あるものは熱を発し、あるものは電位を発生し、あるものは青い光を発し、あるものは赤い光を発する。これらは、物質が単に機械的に反応しているのではなく、物質の原始的な能動性の現われだということができるのではないでしょうか。
◆能動性の組織化と高度組織化
物質から、精神考えるのではなく、人間の脳や精神を考えて、人間の脳が主体性能動性を持っていることをまず認識し、これが、複雑に組織化された物質の働きであると考えてみます。そして、人間の脳と原子を比較した場合、原子は原子としての能動性を持っているし、それしか持っていないと言うことができます。原子のもつ能動性は、殆ど見えない能動性であり、その運動は単なる法則に従った運動にしか見えないかも知れません。しかしそこでも能動性はゼロではありません。それは原子そのものが小さくて見えないけど、その大きさと質量がゼロでないのと同じです。
そのような原子がもつ能動性が、単細胞生物としての能動性へと組織化され、さらに高等動物の能動性に高度に組織化されて、人間の精神のような高度の能動性と主体性が発揮されていると考えることができます。
「人間の脳もイスと同じで、能動性は存在しない」のではなく、むしろ「イスを作っている物質も、人間の脳を作っている物質と同じように能動性がないわけではないが、それが認識される形に組織化されていない」と考えるわけです。能動性が組織されているかどうかが、大きな違いを生みますし、単細胞生物のように低次の組織化と、人間の脳のような高度に組織化されたものとはまったく別のレベルであると言うことができます。
能動性を備えた全ての存在の集合体としての全宇宙は、決して機械的な因果律に従って運動しているわけではありません。ヘーゲルの絶対理念としての神もそのようなものに近いのではないかと思います。しかし、私には、そのような存在を敢えて神と呼ぶ必要もないように思われます。