善悪はどのように判断するのでしょう。善悪は目を閉じて良心に聞けばわかるという人もいます。しかし、状況が複雑になってくると良心も簡単に結論を出してくれません。また、自分は良心にしたがって意見を言っているのに、自分と反対の立場の人も良心にしたがって意見を言っているということもあります。このようなことがおこるのはなぜでしょうか。
神の意思にかなったものが善であるという人もいます。それではどうすれば神の意思を知ることができるのでしょう。教会の神父や牧師に聞けばよいのでしょうか。お寺の僧侶に聞けばよいのでしょうか。それとも神社の神主に聞けばよいのでしょうか。神父や牧師に聞けばわかるなら、なぜ過去に異端裁判や魔女狩りなどが行われたのでしょう。僧侶に聞けばよいのであれば、お寺に宗派の対立などがあるのでしょう。神社にしても同じです。
善悪は時代によって変わるもので、そもそも善悪は人間が勝手につけたものだと言う人もいます。でもそうなのでしょうか。でも、殺すなかれ、盗むなかれは、どのような社会でも善悪の基本といえるのはなぜでしょう。
◆善悪の基準
僕は善悪の基準は、人間同士の関係に基づいて判断されるべきものではないかと思います。まったく孤立して成り立っている人間はそもそも存在しません。親に生んでもらい、人々の中で育てられて人間は人間になります。殺すなかれ、盗むなかれは、「殺す」「盗む」という行為自体他の人間の存在を前提としています。自殺は自分ひとりでできますが、自殺が悪であるのは、生を与えてくれた親がいて、育ててくれた人々がいるからこそではないでしょうか。
数多くの歴史上の誤りは、「お犬様」などは論外としても、神や国家、種族、家など、いずれも「人間」を離れたところに価値を置くことに由来しているように思われます。他人も自分と同じで対等の人間であることが、忘れられています。自分にとっての神や国家、種族、家などが大切であるならばなおさらのこと、他人がその人にとっての神や国家、種族、家などを同様に大切にする権利を保障すべきはずです。私は無信心ですが、イエスが「他人に望むことを、他人にしてあげなさい。」といったのはその意味で正しいと思います。
◆善悪の本質
人生の目的は、自分と他の人々の幸福を追求することにあるということができます。であるならば、善悪は当然に幸福の追求に関わるものということができます。
他人の幸福のために貢献することが「善」であることに異論のある人はいないでしょう。また、自分の幸福を追求することは、人生の目的に沿ったものですから、他人の幸福に貢献することが「善」であるのと同様に、「善」であるはずです。自分自身が幸せになることは、自分を愛し自分の幸せを願ってくれる人々の願いに答えることでもあるはずです。
自分の幸福を追求することの善悪が問題となるのは、それが他人の幸福と矛盾する場合です。そのときに他人を思いやり、その人の幸福との調和をはかることが必要になります。このように個人が幸福を追求する間で矛盾が生ずる場合、「善」とは、人と人の関係において調和をもたらすものであり、「悪」とは、その反対に、調和を破壊するものではないでしょうか。
ですから、自分の幸福を追求することは「善」であったはずですが、他人の幸福との矛盾を省みないで自分の幸福を追求する利己主義は「悪」に変わります。このような状況での「善」とは、自分の幸福と他人の幸福との調和をはかることだということができます。この場合にも他人との関係で必要となる以上に自己犠牲的であったり禁欲的であったりするのは、必ずしも「善」とは言えません。
◆善悪と感情、意志
感情など、自分自身の意志に関わらず発生し、自分の内部に留まっているものには、善悪の介在する余地はないと言えます。正当防衛でない限り、「人を殺す」ことは悪いことであると言えますが、例えば、幼い子供が酔払い運転の車にはねられて死んだとします。その子の親が「その運転手を殺したい」と思ったとしても、それは自然な感情です。そう感じることに意志が介在していませんから、その感情そのものには善悪はありません。問題はそこから意志がどのように介在するかが善悪をわけます。
人を妬んだりする気持ちも、自分自身の意志に関わらず発生し、自分の内部に留まっている限りは「悪」だとは言えません。「自分の心が醜い」などと自分自身を責めたり自己嫌悪に陥る必要はありません。醜いのは、その妬みをその人への嫌がらせによりはけ口を求めることです。
神の意思にかなったものが善であるという人もいます。それではどうすれば神の意思を知ることができるのでしょう。教会の神父や牧師に聞けばよいのでしょうか。お寺の僧侶に聞けばよいのでしょうか。それとも神社の神主に聞けばよいのでしょうか。神父や牧師に聞けばわかるなら、なぜ過去に異端裁判や魔女狩りなどが行われたのでしょう。僧侶に聞けばよいのであれば、お寺に宗派の対立などがあるのでしょう。神社にしても同じです。
善悪は時代によって変わるもので、そもそも善悪は人間が勝手につけたものだと言う人もいます。でもそうなのでしょうか。でも、殺すなかれ、盗むなかれは、どのような社会でも善悪の基本といえるのはなぜでしょう。
◆善悪の基準
僕は善悪の基準は、人間同士の関係に基づいて判断されるべきものではないかと思います。まったく孤立して成り立っている人間はそもそも存在しません。親に生んでもらい、人々の中で育てられて人間は人間になります。殺すなかれ、盗むなかれは、「殺す」「盗む」という行為自体他の人間の存在を前提としています。自殺は自分ひとりでできますが、自殺が悪であるのは、生を与えてくれた親がいて、育ててくれた人々がいるからこそではないでしょうか。
数多くの歴史上の誤りは、「お犬様」などは論外としても、神や国家、種族、家など、いずれも「人間」を離れたところに価値を置くことに由来しているように思われます。他人も自分と同じで対等の人間であることが、忘れられています。自分にとっての神や国家、種族、家などが大切であるならばなおさらのこと、他人がその人にとっての神や国家、種族、家などを同様に大切にする権利を保障すべきはずです。私は無信心ですが、イエスが「他人に望むことを、他人にしてあげなさい。」といったのはその意味で正しいと思います。
◆善悪の本質
人生の目的は、自分と他の人々の幸福を追求することにあるということができます。であるならば、善悪は当然に幸福の追求に関わるものということができます。
他人の幸福のために貢献することが「善」であることに異論のある人はいないでしょう。また、自分の幸福を追求することは、人生の目的に沿ったものですから、他人の幸福に貢献することが「善」であるのと同様に、「善」であるはずです。自分自身が幸せになることは、自分を愛し自分の幸せを願ってくれる人々の願いに答えることでもあるはずです。
自分の幸福を追求することの善悪が問題となるのは、それが他人の幸福と矛盾する場合です。そのときに他人を思いやり、その人の幸福との調和をはかることが必要になります。このように個人が幸福を追求する間で矛盾が生ずる場合、「善」とは、人と人の関係において調和をもたらすものであり、「悪」とは、その反対に、調和を破壊するものではないでしょうか。
ですから、自分の幸福を追求することは「善」であったはずですが、他人の幸福との矛盾を省みないで自分の幸福を追求する利己主義は「悪」に変わります。このような状況での「善」とは、自分の幸福と他人の幸福との調和をはかることだということができます。この場合にも他人との関係で必要となる以上に自己犠牲的であったり禁欲的であったりするのは、必ずしも「善」とは言えません。
◆善悪と感情、意志
感情など、自分自身の意志に関わらず発生し、自分の内部に留まっているものには、善悪の介在する余地はないと言えます。正当防衛でない限り、「人を殺す」ことは悪いことであると言えますが、例えば、幼い子供が酔払い運転の車にはねられて死んだとします。その子の親が「その運転手を殺したい」と思ったとしても、それは自然な感情です。そう感じることに意志が介在していませんから、その感情そのものには善悪はありません。問題はそこから意志がどのように介在するかが善悪をわけます。
人を妬んだりする気持ちも、自分自身の意志に関わらず発生し、自分の内部に留まっている限りは「悪」だとは言えません。「自分の心が醜い」などと自分自身を責めたり自己嫌悪に陥る必要はありません。醜いのは、その妬みをその人への嫌がらせによりはけ口を求めることです。