従来、「必然と偶然」、「自由と必然」というように、これらを別々に論じたものがありますが、「必然と偶然」と「自由」の問題を組み合わせて論じたものがないように思われます。偶然は自由と同義語ではありませんし、「自由」には人間の意志の問題が介在するので、「必然と偶然」とは異なるカテゴリの概念ではないかと思います。私は必然性と偶然性を意志によって統合するところに自由があるのではないかと思い、下記のような考察をしてみました。率直なご意見をいただけましたらありがたく存じます。

◆必然と偶然

必然とは、必ずそうなるとか、そうなったということで、偶然とは、そうなるとは限らず、たまたまそうなるとか、そうなったということです。自然法則などは必然性を持っています。自然界には自然法則が貫いており、その観点では必然性が支配しているということができます。しかし、一方では、自然界においても、あらゆる出来事は偶然に起こっているといっても過言ではありません。

◆必然と偶然の密接なつながり

自然法則が現れるためには、多かれ少なかれ偶然性が関与するということができます。一番わかりやすい例としてサイコロを考えてみましょう。サイコロの目はどれも6分の1の確率です。しかし、6つの目が6分の1づつ出てくるわけにはいきません。また、それぞれの目がいつ出てくるかもわかりません。6回ふれば1通り出てくるわけでもありません。あるときは「1」の目が続いて出てくるでしょう。また、あるときは「6」の目が続くこともあるでしょう。このように、サイコロをふる1回ごとは、偶然です。しかし、多数回ふると、それぞれの目はふった回数かける6分の1の回数出るようになっていきます。ここでは6分の1の確率という必然性は偶然性をとおして現れており、その必然性は偶然性なしでは現れることさえできません。

一方、偶然にも必然性が関与しています。サイコロの例では、1回ごとのサイコロの目は偶然だといいましたが、この偶然において、力学的に考えれば必然性が支配しています。サイコロが手を離れた瞬間の状態とサイコロに与えられた運動エネルギ、ころがった表面の弾性や摩擦などによって、出るべきサイコロの目は決まります。このように、1回ごとに出てくる目は力学的な法則にしたがって出ます。このように考えると、必然と偶然とは反対の概念ですが、互いに入り組んだ非常に密接な関係にあることがわかります。

◆自由とは何か

自由とは、何らかの選択の余地がある状況において、自らの意志で、選択することです。選択の余地のないところに自由はありません。選択とは、抽象的な可能性としてある選択肢のいずれか関して、主体的な意志により必然的なものにもたらすことです。選択という行為そのものは、必然でもありませんし、偶然でもありません。選択という行為が、可能性であったものを必然的なものとする行為であるということができます。

例えば、背中がかゆいとします。背中を掻くか掻かないかは自由であり、選択肢が与えられています。意志は、掻くことを決心し、手を動かして、背中を掻きます。背中のかゆいところに手が届かない場合、たまたま物差しがあればそれを使って、掻いたりします。背中を掻くことでかゆみが治まれば、自分の意志で行為を選択し、背中を掻くことで、かゆみという問題を解決することができます。選択自体が自由に基づくものであり、問題が解決することにより、自由を喜ぶことができます。

◆問題解決と自由

以上の点をもう少し考えてみましょう。背中のかゆいところに手が届かない場合、その原因は、手の長さと身体(肩)の柔軟性の問題で、手が背中の肝心の場所に回らないということです。解決方法としては、例えば(1)手の長さを長くする、(2)身体(肩)を柔軟にする、(3)人に掻いてもらう、の三通りが考えられます。選択肢(1)では、手は簡単に伸ばすことはできません。また選択肢(2)は、柔軟体操などにより将来は可能ですが、今すぐには間に合いません。(3)についても、頼める人がいないとします。そこで、定規や孫の手という手の長さを延長する代用となるものを使うということになります。

日常に何気なく行っている行為ですが、ここではさまざまな状況判断が行われています。ここには、手の先と、背中の患部の幾何学的な状況と、定規や孫の手の長さなど、についても検討がなされます。定規や孫の手が短すぎると届かない場合もあります。この部分はある意味では、自然法則に関する考察が行われています。そして、背中の患部に届くだけの長さのものを見つけて初めて、背中の患部を掻くことができ、問題が解決されます。

◆必然・偶然と自由

このように自由が発揮される過程では、まず行為選択の可能性が与えられます。次に可能な選択肢をみつけ、選択肢の実現の可能性が評価されます。選択肢によっては、自然法則(必然性)などの理解を必要とすることもあります。そして評価した実現の可能性に基づいて、意志決定がなされ、自由が実現されます。

背中を掻くという過程では、必然性の認識はさほど重要な役割を果たしていませんが、問題の情況が複雑になればなるほど、背後にある法則性、すなわち必然性の認識が重要になってきます。自然科学上の問題解決であれば、自然法則という必然性、社会科学上の問題であれば、社会科学的法則という必然性の認識が不可欠になります。このような必然性に関する認識が不足していますと、誤った意志決定となりやすく、「自由」な選択を行ったにも関わらず、問題が解決できないという不自由をもたらすことになります。

◆必然と偶然の統合としての自由

このように、まず問題の状況が与えられます。状況は必然がもたらす場合も、偶然がもたらす場合もあります。状況のなかから、問題解決の選択肢の抽出が行われます。このプロセスには、必然性に関する考察が必要とされるでしょう。抽出された選択肢は、どれが選択されるか未定の段階では、単なる可能性です。つぎに選択肢の実現可能性に関する検討が行われます。この部分はさらに必然性に関する認識および考察が必要とされます。そして実現可能性に関する検討結果から、人間の自由な意志によって意志決定がなされます。意志決定そのものは、必然でも偶然でもありません。くじを引いて選択肢を決めたとしても、自由意志でそのような選択方法を採用したのですから、単なる偶然ではありません。

ここでひとつ注目されることは、選択肢の実現可能性に関する検討の過程において、必然性の認識がより深まれば深まるほど、自由意志が選択する選択肢が自ずと必然的なものに絞られてくることが多いことです。そして、自由意志が選択する選択肢が自ずと必然的なものに絞られてくるという、自由と一見相反する現象が、自由を束縛するのではなく、より自由になることにつながっていることです。

そして意志決定に基づく行動がとられます。あるときは予定通りに問題が解決されますが、あるときは、予定通りに問題が解決しないこともあります。この過程では、法則性や必然性に関する認識が不充分であったことが原因の場合もあります。また、必然性に関する認識が充分であったにも関わらず、それを妨げる偶然が作用したという場合もあります。

このように与えられた状況において自由が発揮され、自由による満足に至る過程には、必然と偶然か複雑に関与しており、これら必然と偶然を総合する中で、自由意志が選択すべき選択肢が絞られ、ある意味では「必然的」な選択の意志決定がされていくように思われます。このような表現が適切かどうかはわかりませんが、必然性と偶然性を意志によって統合するところに自由の実現があるのではないかと思います。