哲学というと、科学を批判するものであるように理解しているような人がいます。しかし、哲学はもともと科学に敵対するものではありません。むしろ、科学は哲学から生まれてきたものです。例えば、力学を打ち建てたニュートンの著書は「自然哲学における数学的原理」というタイトルがつけられていました。米国で理科系の博士号をいまでもPh. D.(philosophical Doctor)とよぶのはその名残でしょう。

  哲学は科学と異なり、全ての学問を包含するものです。しかし、哲学が、科学以外の学問を総動員したとしても、強固に打ち建てられた科学的真理を破壊する力を持つことはできないでしょう。科学は驚異的な現代文明の基礎を築き上げていますし、はるか何十億光年の彼方の宇宙をも認識しつつあるほどすでに発展しています。

  科学的真理に矛盾する「哲学的真理」をとなえることは、それ自体その哲学に問題があるように私には思われます。哲学が科学に対してなすべきことは、的外れな反科学的批判をすることではなく、科学的真理を包含する強固な認識体系や、科学の応用に関わる価値観を打ち建てることであり、人類にとって、科学の正しい位置づけを与えることではないでしょうか。

  科学者はその研究過程において、哲学的な真理認識プロセスを必ずしも意識的に適用しているわけではありません。しかし、科学者は、無意識的ではあっても、基本的に、演繹推理と帰納推理を適用し、科学的真理の認識のプロセスのしたがっています。

◆演繹推理と帰納推理

  演繹推理とは、普遍的な知識や法則から出発し、これらを用いて、個別的な状況を予測する推理です。「AならばBである」と「BならばCである」から「AならばCである」を導き出す三段論法は演繹推理です。ニュートン力学を用いて、人工衛星の打ち上げのための軌道を計算したりするのも、このような演繹推理の例ということができます。演繹推理では前提となる知識や法則が正しければ、得られる結論も正しいものが得られます。しかし、演繹推理では前提の中にもともと推理される内容が含まれており、新しい法則や知識を必要とする場合には対応することができません。

  帰納推理とは、個別的な知識から出発し、これらを総合することにより、より普遍的な知識や法則を得ようとする推理です。演繹推理と異なり、新しい法則や知識を導き出すきっかけとなるものです。しかし、帰納推理は不確実なもので、結論が正しいとは限りませんので、さらに検証が必要になります。

◆科学的真理の認識

  科学において、真理の認識のためにまず行われることは、観察や実験によるデータの収集です。そして収集されたデータが、整理され分析されます。このような観察や実験によるデータの整理分析から、帰納推理により仮説が作られます。前述のように、帰納推理は不確実なもので、結論が正しいとは限りませんので、さらに検証が必要になります。

  検証の方法としては、仮説に基づいて、今度は演繹推理により別の特定の状況の予測が行われ、その特定状況の実測データと予測データの比較が行われます。これらのデータが一致すれば仮説が正しい可能性が高まります。

  新たな特定状況のデータは、多くの場合は実験により得られます。しかし宇宙に関するものなど、実験できない場合は、仮説をつくるために用いたデータとは異なる対象から得たデ-タを用いることもできます。この異なる対象から得たデータに関して、仮説による予測データと比較することになります。いずれにしても、仮説に基づく予測と、他の実測データとの照合による検証という手続きを踏むことでは同じと言うことができます。このように、帰納推理による仮説の設定、演繹推理による予測、実測データとの比較による検証を経て、仮説は確立された理論になります。

◆科学的真理の確実性

  科学における認識は、単にデータを比較するだけにとどまらず、新たな理論に基づいて、新しい製品や利用方法が作り出されたりします。理論が正しくなければ、よほどのまぐれでない限りうまくいきません。理論が正しくても、新しいものを作る過程では様々な問題を克服することが必要です。そして、結果的に理論を自由に活用することができるようになれば、その理論は真理として不動のものとなります。このように科学的知識は現実面での実験や応用という実践により、絶えず確認されており、その真理性は確固としたものになっていくということができるでしょう。

  科学的真理の確実性ということは、科学万能主義や科学崇拝主義を是認するものではありません。科学それ自体は価値観をもたないからです。哲学は、価値観や意味など、その対象とするものは、科学的真理のみに限定されないことは確かです。それは科学が対象としない真理があることを意味しますが、科学的真理を否定する真理が他にあるという意味ではありません。科学的真理を包含する知的体系を築き上げることが、哲学にとって必要なのであって、科学的真理と敵対する知的体系はそのスタートにおいて誤っているということができるでしょう。