「ある」とはどういうことなのでしょうか。また、「ない」についても、何もないのになぜその状態を表す言葉が生まれたのでしょう。
◆私たちにとっての「ある」と「ない」
「ある」と「ない」とは、人間と自然との関わりの中で実用的な観点から生まれた言葉ではないでしょうか。例えば、食べ物と私たちの関わりを考えてみましょう。食べ物が「ある」ということは、食べて飢えをしのぐことができるということです。一方、食べ物が「ない」ということは、飢えをしのぐことができないという、深刻な事態に関わるわけです。ですから、何かが「ない」ということは、単に「空白」であるということではなく、時には自分の生死にも関わる状態を意味すると言えます。このような「ある」と「ない」は、自分にとっての「ある」と「ない」であったり、誰かにとっての「ある」と「ない」であって、客観的な「ある」と「ない」というものでないかもしれません。
◆発見による「ある」と「ない」
科学技術が発展するにつれて、さまざまなものが発見されました。発見されたということは、今までは私たちにとって「ない」と同然であったということができます。つまり、私たちにとっての「ある」と「ない」は、私たちを離れた立場(客観的な立場)から見た「ある」と「ない」とは必ずしも同じではないのです。発見という事実が、私たちにとっての「ある」と、客観的な「ある」との間にもたらしたことは、何でしょう。発見されたものは、もともとあったけれど私たちがあることを知らなかったのでしょうか、それとも、私たちが発見したから、あるということが始まったのでしょうか。
私は、もちろん、発見されたものは、もともとあったのだと思います。私たちが発見したから、あるということが始まったのなら、なかったものを発見するということは、どういうことでしょうか。誰かが、潮干狩りの貝のように私たちが発見するように、なかったところに埋め込んだのでしょうか。もしそうなら誰が何のために? また、りんごはニュートンが万有引力を発見してから落ち始めたのでしょうか。
発見されたものは、もともとあったのだと考えれば、わかりやすいのに対して、私たちが発見してから、あるということが始まったと考えると、わけのわからない泥沼に引き込まれるばかりです。結局、発見により、もともとあったものを見つけたのであって、私たちにとっての「ある」と、客観的な「ある」に近づいたと考えることが、最もわかりやすいし、それが現実のあり方を反映しているといえるのではないでしょうか。 このように科学が発展することにより、私たちにとっての「ある」と「ない」は、客観的な「ある」と「ない」に無限に近づいていくのだと考えるべきではないでしょうか。
◆客観的な「ある」と「ない」
客観的に「ある」ということは、私たちが現時点でそれがあるということを知らなくても、いつかは「ある」ことが科学的に分かる可能性があるということだということができます。「ある」ことが永遠に科学的にわからないものとは実は「ない」ということではないでしょうか。
「世の中には科学で解明できないことがたくさんある。」とよく言われます。物事の私たちにとっての意味や、好き嫌いや価値のような問題は、そもそも科学が解明すべき分野ではないでしょう。
しかし、現実の世界に力を及ぼすものであれば、科学によって検知できるものであり、そのメカニズムを理解することができるということであり、私たちに力を及ぼしているが永遠に解明できないというものはないと言えるのではないでしょうか。もし、私たちに力を及ぼしているかどうかさえ分からないとすれば、それは「ない」ということに他ならないのではないでしょうか。
◆「ある」ことの影響
「ある」と「ない」とを私たちにとっての関係から考えてみましたが、何かが「ある」ということは、他のものとなんらかの関係をもち、影響しあうものであると言うことができます。
影響しあう度合いは一般的には距離的に近いものが、影響力が強く、「存在感」が強いと言うことがいえます。距離が離れればその影響力は一般に弱まり、「存在感」が弱いものになります。影響力が弱いということと「ない」ということとは違います。何十億光年離れたところにある星雲は、私たちにとって影響力が弱いものです。それでも、何十億年もかかって到着した光や電波という影響力を及ぼすことにより望遠鏡により観測されているのです。
中途半端ですが、続きはまたいずれ。
◆私たちにとっての「ある」と「ない」
「ある」と「ない」とは、人間と自然との関わりの中で実用的な観点から生まれた言葉ではないでしょうか。例えば、食べ物と私たちの関わりを考えてみましょう。食べ物が「ある」ということは、食べて飢えをしのぐことができるということです。一方、食べ物が「ない」ということは、飢えをしのぐことができないという、深刻な事態に関わるわけです。ですから、何かが「ない」ということは、単に「空白」であるということではなく、時には自分の生死にも関わる状態を意味すると言えます。このような「ある」と「ない」は、自分にとっての「ある」と「ない」であったり、誰かにとっての「ある」と「ない」であって、客観的な「ある」と「ない」というものでないかもしれません。
◆発見による「ある」と「ない」
科学技術が発展するにつれて、さまざまなものが発見されました。発見されたということは、今までは私たちにとって「ない」と同然であったということができます。つまり、私たちにとっての「ある」と「ない」は、私たちを離れた立場(客観的な立場)から見た「ある」と「ない」とは必ずしも同じではないのです。発見という事実が、私たちにとっての「ある」と、客観的な「ある」との間にもたらしたことは、何でしょう。発見されたものは、もともとあったけれど私たちがあることを知らなかったのでしょうか、それとも、私たちが発見したから、あるということが始まったのでしょうか。
私は、もちろん、発見されたものは、もともとあったのだと思います。私たちが発見したから、あるということが始まったのなら、なかったものを発見するということは、どういうことでしょうか。誰かが、潮干狩りの貝のように私たちが発見するように、なかったところに埋め込んだのでしょうか。もしそうなら誰が何のために? また、りんごはニュートンが万有引力を発見してから落ち始めたのでしょうか。
発見されたものは、もともとあったのだと考えれば、わかりやすいのに対して、私たちが発見してから、あるということが始まったと考えると、わけのわからない泥沼に引き込まれるばかりです。結局、発見により、もともとあったものを見つけたのであって、私たちにとっての「ある」と、客観的な「ある」に近づいたと考えることが、最もわかりやすいし、それが現実のあり方を反映しているといえるのではないでしょうか。 このように科学が発展することにより、私たちにとっての「ある」と「ない」は、客観的な「ある」と「ない」に無限に近づいていくのだと考えるべきではないでしょうか。
◆客観的な「ある」と「ない」
客観的に「ある」ということは、私たちが現時点でそれがあるということを知らなくても、いつかは「ある」ことが科学的に分かる可能性があるということだということができます。「ある」ことが永遠に科学的にわからないものとは実は「ない」ということではないでしょうか。
「世の中には科学で解明できないことがたくさんある。」とよく言われます。物事の私たちにとっての意味や、好き嫌いや価値のような問題は、そもそも科学が解明すべき分野ではないでしょう。
しかし、現実の世界に力を及ぼすものであれば、科学によって検知できるものであり、そのメカニズムを理解することができるということであり、私たちに力を及ぼしているが永遠に解明できないというものはないと言えるのではないでしょうか。もし、私たちに力を及ぼしているかどうかさえ分からないとすれば、それは「ない」ということに他ならないのではないでしょうか。
◆「ある」ことの影響
「ある」と「ない」とを私たちにとっての関係から考えてみましたが、何かが「ある」ということは、他のものとなんらかの関係をもち、影響しあうものであると言うことができます。
影響しあう度合いは一般的には距離的に近いものが、影響力が強く、「存在感」が強いと言うことがいえます。距離が離れればその影響力は一般に弱まり、「存在感」が弱いものになります。影響力が弱いということと「ない」ということとは違います。何十億光年離れたところにある星雲は、私たちにとって影響力が弱いものです。それでも、何十億年もかかって到着した光や電波という影響力を及ぼすことにより望遠鏡により観測されているのです。
中途半端ですが、続きはまたいずれ。