◆祈りと宗教

  宗教を信じる人は、「科学では解明できないことがある」という言葉を好んで使います。その解明できない部分が宗教の領域であって、これを確保しようということでしょう。しかし、宗教は人々のよりどころとして、根強く存在しておりますが、自然界の神秘に関しては、宗教は絶えず後退させられ、領土を譲らざるを得ない状況です。一方、科学が進歩しても様々な悲劇が繰り返されており、人々の祈りが絶えることはありません。ところで祈りとは、もともと宗教的なものなのでしょうか。

  人間は未来に対して絶えず希望と不安を持っています。その未来への希望が失われそうになるところや不安に負けそうになるところに祈りが生まれるのではないかと、私は思います。祈りというと宗教的なものと一般に思われていますが、このような祈りは自然な感情の動きではないかと思います。希望の光が消えないでいて欲しいと気持ちそのものが祈りであり、この祈りは、失われつつある希望に対する執着であり、それ自体必ずしも宗教心と直接結びついたものではないと思います。宗教はこの祈りを神の力と関連づけることから生まれます。

◆希望への執着

  「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。例えば死を宣告された患者がいるとします。現在の医学では解決できない問題が与えられたわけです。医学の立場からすれば、その解決への道は、その病気の研究をさらに進め、治療方法を開発することでしょう。しかし、そのような解決は、いま目の前にいる患者にとっての解決にはなりません。この患者とその周りにいる人々にできる解決には何があるでしょう。

  冷静に考えてみると、医者が施すすべがないのに、医者でもない人々にできる現実的な手立てがあろうはずがありません。しかし、愛する人の生命が失われつつあるときに、あっさりとあきらめることができないのは当然でしょう。人によっては民間療法を調べるなど、なんとか手を尽くそうとします。それでもダメだったときに、人々にできることは祈ることだけになります。祈りは希望に対する執着だと私がいうのは、そのような意味です。

◆宗教の起源

  このようなときに、宗教は、ひとつの精神的な救いの手を差しのべてくれるものだということができます。かけがえのないものが失われつつあるにも関わらず、現実に何もできないときに、人はどうしようもないやりきれなさを感じます。そのやりきれなさのはけ口を人々は求めます。宗教が実際に患者を救う力があるか否かには関係なく、やりきれないエネルギを神への祈りとして発散させることにより、その人々の心理面で、徐々に現実を受け止める準備がされていくのでしょう。

  社会において人生において、未来への希望が失われそうになる状況は、いくらでも起こっています。そして先にのべたような流れから、宗教を求める人々が生まれるのは必然だということができます。

  しかし、宗教の発生が必然であることや、人々のやりきれなさのはけ口として、人々に心理的に安らぎと救いが与えられるということと、神が存在し現実世界を支配していることや救済してくれることとは別の問題であることを忘れてはならないと思います。