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◆宿命論とは

  宿命論について考えてみましょう。自分の人生を振り返ってみると、自分のたどってきた道は、1本しかないことに気づきます。それぞれの時点では無数の選択肢があったはずなのに、いつもどれかひとつを選択して現在にいたっているのです。

  そこで、その都度選択肢があったと思うのは錯覚で、本当は最初から道は決っていたのだと考えることができます。そう言われれば、そうでないと証明することはできないでしょう。子供の心理をよく知った大人が小さな子供をうまく操ることもあるように、自由意志があると思わせて神様はうまく私らをあやつっているのかも知れません。そう信じている人にそうでないと証明することは不可能かもしれません。

◆自由意志はないのか

  でも、少なくとも自分の身体は自分の意志で動いていることは確かではないでしょうか。健康な人間でAの道を行きたいのに、身体がBの道をいってしまうということはありません。もちろん、その都度、事情があって本来自分の望みと異なるものを選ばざるを得なかったということもあるでしょう。しかし、あくまでも最後は自分で決めたのですし、振り返ってみて自分がAの道を選んだことに自分の意志と無関係に物事が進んできたのではありません。誰かが自分を操ったという証明もできません。自分の身体が自分の意志で動くのに、操られているのではないかと疑うことにどれだけの意味があるでしょうか。どうあがいても、操られているという結論はでてきませんし、現に自分の身体は自分の意志で動くのですから、自由意志はあると考えて何の不都合があるのでしょうか。

◆宿命を知ることの矛盾

  そもそも宿命があるならばそれを知ることができなければ意味がありません。どうしても知ることができないならば、それはないものとして考えるしかありません。何かが存在するかどうかは、本来何らかの手段により知ることができるかどうかということに通じています。

  もし何らかの手段で自分の宿命を知ることができるならば、宿命自体意味を失ってしまいます。例えば、A、B、Cの選択肢があるときに、Aを選ぶのが私の宿命だとわかったとします。私はきっとBかCを選ぶことにします。そうすると、そのときにAを選ぶという宿命はそもそも何だったのでしょうか?このような矛盾が生ずるのはそもそも宿命などないからに他ならないとは言えないでしょうか。

◆自由意志と現実

  ただし、自由意志があるということは、自分の思うことが何でも実現するという意味ではありません。現実の社会では、多くの人々の意思や様々な環境や情況、歴史的背景が複雑にからまっており、個人の思い通りにことが進まないことが往々にしてあるのは当然です。そのような複雑な情況を運命という言葉で単純化しようとしているだけに過ぎないように思えます。

  壁にぶちあたったとき、事態を打開し、物事をうまく運ぶために必要なのは、その複雑な情況をできる限り正確に理解し、適切に対処することを考えることでしょう。