宗教の優劣について考えてみましょう。宗教は本来人々に安らぎを与えるべきものですが、昔から宗教がむしろ争いの原因になっていることもよくあります。宗教は「ひと」という動物に特有の思考現象だということができるでしょう。宗教を信じない人間が常にいる一方、人間がいる限り宗教がなくなることはおそらくないでしょう。宗教は科学に妥協しつつも、究極的に科学そのものを否定しますので、特定宗教の正当性を科学で証明することはできません。すなわち客観的ものさしがないということです。
ある日私が事故にあったとします。AさんはA宗教を信心しない罰が当たったのだと言います。Bさんは「イワシの頭」を信心しない罰だと言います。ある日Aさんが事故にあったので、彼の言うことを聞きますと、「あの事故で自分は死んでいてもおかしくないのに、命が助かったのは、A宗教を信心していたおかげだ」と言います。私の事故は罰であるのに、Aさんの事故は罰ではないのです。Aさんは自分の言葉の身勝手さに殆ど気が付いていないようです。確かにAさんの言っていることが誤りであると証明することはできません。でも同様に、Aさんは、私の事故がA宗教の罰で、「イワシの頭」教の罰ではないということも証明できません。「神」と「イワシの頭」を比べるのは冒涜だと思われるかも知れませんが、この場合論理的にはどちらでも同じことなのです。
このように、どの宗教を信心すればいいのかを考えて何年かけても、結論はでないということになります。「A宗教」を信じる人にも「イワシの頭」を信じる人にも、人生には良いこともあれば悪いこともあります。良いことや悪いことが起こるたびに宗教に結び付けて考えるより、その原因を科学的に考えた方が、前向きでよほど意味があるのではないでしょうか。
神という偉大な存在があるならば、たまたま縁があって異なったかたちの信心をしたからといって、罰を下したりしないでしょう。そのようなことは、独占欲が強く嫉妬深い人間が、狭い了見からする嫌がらせのようなものであって、偉大な神がすることとは思えません。また、威張りたがりやのおじさんのように、自分に対してうやうやしく礼拝しないのはけしからんと言って懲らしめてやろうと思うようなことも、神はしないでしょう。ましてや、まじめに考えて、神の存在が納得できないから無信心でいる人間を罰するような理不尽なことをするとは思えません。信じるべき理由がなくて信じないことは、そんなに悪いことなのでしょうか。
ある日私が事故にあったとします。AさんはA宗教を信心しない罰が当たったのだと言います。Bさんは「イワシの頭」を信心しない罰だと言います。ある日Aさんが事故にあったので、彼の言うことを聞きますと、「あの事故で自分は死んでいてもおかしくないのに、命が助かったのは、A宗教を信心していたおかげだ」と言います。私の事故は罰であるのに、Aさんの事故は罰ではないのです。Aさんは自分の言葉の身勝手さに殆ど気が付いていないようです。確かにAさんの言っていることが誤りであると証明することはできません。でも同様に、Aさんは、私の事故がA宗教の罰で、「イワシの頭」教の罰ではないということも証明できません。「神」と「イワシの頭」を比べるのは冒涜だと思われるかも知れませんが、この場合論理的にはどちらでも同じことなのです。
このように、どの宗教を信心すればいいのかを考えて何年かけても、結論はでないということになります。「A宗教」を信じる人にも「イワシの頭」を信じる人にも、人生には良いこともあれば悪いこともあります。良いことや悪いことが起こるたびに宗教に結び付けて考えるより、その原因を科学的に考えた方が、前向きでよほど意味があるのではないでしょうか。
神という偉大な存在があるならば、たまたま縁があって異なったかたちの信心をしたからといって、罰を下したりしないでしょう。そのようなことは、独占欲が強く嫉妬深い人間が、狭い了見からする嫌がらせのようなものであって、偉大な神がすることとは思えません。また、威張りたがりやのおじさんのように、自分に対してうやうやしく礼拝しないのはけしからんと言って懲らしめてやろうと思うようなことも、神はしないでしょう。ましてや、まじめに考えて、神の存在が納得できないから無信心でいる人間を罰するような理不尽なことをするとは思えません。信じるべき理由がなくて信じないことは、そんなに悪いことなのでしょうか。