すべての存在を疑い、結局すべての存在を確認できないとする考え方があります。これは、自分にとって確実なのは、感覚以外にないことに基づいています。確かに、自分に見えている世界が幻でないという証明はできません。私たちが、何かが存在すると思うのは、見て、触って、音を聞いて、臭いをかいで、味を見て、そう思っているのです。

  夢でもいろいろなものを見たり聞いたりし、それが現実だと思っていますが、目が覚めてから、それらは自分の意識の中にしかなかったことに気づきます。目が覚めて現実だと思っていることが、はたして幻でないといいきれるのかと、考えますと、確かにそのような証明はできません。目が覚めたと思っていたらそれも夢だったという夢を見たことも、現に私自身あります。

  しかし、そこで重要なことは、そう考えるということは、全ての人々の存在も疑わなければならないということです。しかし私たちが現に生きており、悩みながら解答を得ようとしているのは、他でもない、自分以外の人々が存在している世界に関するものではないでしょうか。私たちの考えるべき人生は、自分以外の人々が存在するという前提の中での人生ではないでしょうか。

  親兄弟や友達、職場の人々に向って、「あなたの存在が哲学的に確信できない」と言うことにどのような意義があるのでしょう。また、一切の人々の存在しない空虚な世界において、人生や真理を想定することにどのような意義があるのでしょう。

  それに、自分の外にある世界の内容が、互いに矛盾せずに私たちの感覚に与えられていること自体が、自分の外にある世界の証明になっています。それでもなお、自分の外にある世界の存在を疑うことは、自分で目をつぶって、見えない見えないと言っているようなものではないでしょうか。