◆本質と現象
本質とは、ものごとの内面の姿であり、ものごとの背後にあってその基礎をなしている本当の姿をいいます。現象とは、ものごとの外面の姿であり、実際に感覚でとらえることのできる姿のことをいいます。要するに、本質とは内面の本当の姿、現象とは外面の見せかけの姿ということができます。しかし、これは、本質が本当で、現象がウソであるということではありません。
本質は現象を通じてのみ現れることができるのですし、現象として現れることのない本質はありません。現象として現れない本質は、本質とはいえません。また、現象は本質があってこそ現れることができるのであり、現象は必ず本質を反映しています。本質を反映していない現象はあり得ません。ですから、本質と現象は一体のものであるということができます。
◆科学における本質と現象
科学的真理という本質は、実験により現象として確認されなければなりません。例えば、ニュートン力学の方程式F=mα は力は物体の質量と加速度に比例することを示しており、物体の運動の「本質」を示しています。しかし、現実の世界では、ボールが転がったり、りんごが落ちたり、木の葉が落ちたりという現象が見えるだけで、「F=mα」そのものを見ることはできません。
本質と現象とは時には全く異なって現れます。ニュートン力学では、物体は同じ速さで落下するはずなのに、パチンコ玉と羽毛では落ちる速さが全く違います。言うまでもなく、羽毛の場合、落ちる際に空気抵抗が大きいためにゆっくり落ちるのですが、それでも羽毛にニュートン力学が現象していないわけではありません。空気抵抗という他の要因の影響が大きいために異なって見えるだけです。このような本質と現象の違いを明らかにし整理するのが、科学であり、哲学です。
◆本質と現象の境界
本質と現象の関係はこのように密接な関係があることを忘れてはなりません。現象を見ないで本質を理解することはできないのです。また現象として現れることのない「本質」ありませんし、現象として現れることのないものが「本質」と呼ばれるなら、それはにせの本質といえるのではないでしょうか。
このような本質と現象の関係を正しく認識しないで、本質の世界と現象の世界を分けてしまい、人間は現象しか認識することができず、存在の本質である神は認識できないなどと言ったりします。カントは、人間の認識が人間としての見方によって限定されており、それを超えた「物自体」を認識することはできないといいましたが、このような考えも本質と現象を分離し、両者の関係を正しくとらえていない考え方のように思われます。しかし、物自体(本質)が存在するということは、物自体が現象に現れるということであり、現象を通じて本質を理解しえるのではないでしょうか。
◆人格としての本質
あまり哲学的に厳密ではないかもしれませんが、本質と現象の関係を人間について適用して考えてみましょう。個人の人格が本質であれば、その人の行動、言動が現象ということになるでしょう。その人の人格が優しいということは、その人の行動や言動から優しさがうかがわれるということです。
人間として「本質的に」立派であるためには、その本質を現象させて立派な人間として振舞うことが必要なのではないでしょうか。社会を傍観し、人間社会の愚かさをあざ笑い、頭の中で立派なことを考えていても、その人が年老いて死ぬまで、その立派な考えの実現の努力もせず、立派なことを何もせずにいたなら、その人は本質的に立派な人だったのでしょうか。気の毒な人ではあったかも知れませんが、少なくとも本質的に立派な人であったとは言えないと思います。
本質とは、ものごとの内面の姿であり、ものごとの背後にあってその基礎をなしている本当の姿をいいます。現象とは、ものごとの外面の姿であり、実際に感覚でとらえることのできる姿のことをいいます。要するに、本質とは内面の本当の姿、現象とは外面の見せかけの姿ということができます。しかし、これは、本質が本当で、現象がウソであるということではありません。
本質は現象を通じてのみ現れることができるのですし、現象として現れることのない本質はありません。現象として現れない本質は、本質とはいえません。また、現象は本質があってこそ現れることができるのであり、現象は必ず本質を反映しています。本質を反映していない現象はあり得ません。ですから、本質と現象は一体のものであるということができます。
◆科学における本質と現象
科学的真理という本質は、実験により現象として確認されなければなりません。例えば、ニュートン力学の方程式F=mα は力は物体の質量と加速度に比例することを示しており、物体の運動の「本質」を示しています。しかし、現実の世界では、ボールが転がったり、りんごが落ちたり、木の葉が落ちたりという現象が見えるだけで、「F=mα」そのものを見ることはできません。
本質と現象とは時には全く異なって現れます。ニュートン力学では、物体は同じ速さで落下するはずなのに、パチンコ玉と羽毛では落ちる速さが全く違います。言うまでもなく、羽毛の場合、落ちる際に空気抵抗が大きいためにゆっくり落ちるのですが、それでも羽毛にニュートン力学が現象していないわけではありません。空気抵抗という他の要因の影響が大きいために異なって見えるだけです。このような本質と現象の違いを明らかにし整理するのが、科学であり、哲学です。
◆本質と現象の境界
本質と現象の関係はこのように密接な関係があることを忘れてはなりません。現象を見ないで本質を理解することはできないのです。また現象として現れることのない「本質」ありませんし、現象として現れることのないものが「本質」と呼ばれるなら、それはにせの本質といえるのではないでしょうか。
このような本質と現象の関係を正しく認識しないで、本質の世界と現象の世界を分けてしまい、人間は現象しか認識することができず、存在の本質である神は認識できないなどと言ったりします。カントは、人間の認識が人間としての見方によって限定されており、それを超えた「物自体」を認識することはできないといいましたが、このような考えも本質と現象を分離し、両者の関係を正しくとらえていない考え方のように思われます。しかし、物自体(本質)が存在するということは、物自体が現象に現れるということであり、現象を通じて本質を理解しえるのではないでしょうか。
◆人格としての本質
あまり哲学的に厳密ではないかもしれませんが、本質と現象の関係を人間について適用して考えてみましょう。個人の人格が本質であれば、その人の行動、言動が現象ということになるでしょう。その人の人格が優しいということは、その人の行動や言動から優しさがうかがわれるということです。
人間として「本質的に」立派であるためには、その本質を現象させて立派な人間として振舞うことが必要なのではないでしょうか。社会を傍観し、人間社会の愚かさをあざ笑い、頭の中で立派なことを考えていても、その人が年老いて死ぬまで、その立派な考えの実現の努力もせず、立派なことを何もせずにいたなら、その人は本質的に立派な人だったのでしょうか。気の毒な人ではあったかも知れませんが、少なくとも本質的に立派な人であったとは言えないと思います。