以下の文章では、「物体」という言葉は、ボールやテーブル、イス、鉛筆などの物という意味で使い、「物質」は、精神を除いて客観的に存在するものすべてを含む意味で使っています。

◆物体の非能動性と精神の能動性

  ボールやテーブル、イス、鉛筆など、身の回りにある物体は能動性を持っていません。ボールは誰かが投げたり打ったりしないと飛びませんし、とんだ後は、摩擦や抵抗により運動エネルギーが消耗されれば止まります。このような物体には自分から行動するという能動的な主体性はありません。

  人間は精神を持ち、自分から行動したり選択したりする能動的な主体性を持っています。人間の肉体は物質からできていますし、究極的には原子や素粒子からできています。もし人間の肉体を作っている物質に主体性がないのなら、人間精神の主体性はどこから生まれるのでしょうか。デカルトという人は、精神と物体との二元論(二本立て)になっていると考えました。自然界は物質とその機械的な運動からなり、最初の運動を与えたのは神であり、人間の精神の営みは、この運動とは独立して神によって与えられるものとしました。しかし、この二元論では、例えば、精神が右手を上げようとすると右手が上がるというように、神に起因する精神と、機械的な運動法則に従う肉体とが、なぜ一致するのかをうまく説明することができません。

◆物質の能動性

  ボールのような物体は能動性や主体性を持っていませんが、物質はもともと能動性や主体性を持っていないのでしょうか。しかし、宇宙が大爆発(ビッグバン)で誕生して以来、物質は自らの力で運動を続けてきたのではないでしょうか。宇宙ではダイナミックな星の誕生や消滅がたえずくり返されていますが、このような運動は、誰の意志が介在することなく、物質のみによって起こっています。地球の内部を見ても、マグマが活動し続けています。

原子や素粒子の世界をみても、すべてのものは、ものすごいスピードで運動したり振動したりしていて、静止しているものはほとんどありません。このような物質のあり方を見ると、物質は本来自発的に動いているものだということができるのではないでしょうか。身の回りにある物体が能動性や主体性を持って運動することがないので、物質一般を静的な受動的なものと誤解したために、「受動的物質」という概念が生まれたのではないでしょうか。実際には静止している物体でさえ、それを形成している分子や原子を見ると運動したり振動したりしています。私たちの身の回りの静的な机やイスなどが物質の代表ではなく、動的な原子や、星などがむしろ物質を代表するものではないでしょうか。

◆人間の精神

物質の能動性を前提にすると人間の精神の能動性も理解しやすくなります。原子や分子などの能動性は低次の能動性であり、人間の精神の能動性は高度に組織化された能動性です。宇宙が始まって以来、活動を続けてきた物質の能動性が、複雑な過程で組織化され、進化発展してきたのであり、人間の精神はその頂点にあるものだということができます。

私は、厳粛な客観的事実として、人間は物質からなるものであると思います。このように言うことは、人間を「物体」におとしめるものだと言う人もいますが、私はそうは思いません。ダイヤモンドは木炭と同じく炭素原子からなっていることを知らない人はほとんどいないでしょう。それを知ったからといって、その事実が、ダイヤモンドの輝きや価値をそこなうものでないのと同じです。人間が物質からなることは、物質の発展と進化の頂点に立つものとして、その尊さを再認識することだと思います。

人間が死んだら魂が肉体から離れ、天国で幸せにくらせるとか、また生まれ変わると考えることで、人間の生命を本当に大切にできるのでしょうか。人間の肉体が物質の繊細で微妙なバランスから成り立っており、その肉体が一部でも破壊されると取り返しがつかないことを認識することこそ、戦争や暴力に反対し、人間を大切にすることの基本ではないかと思います。