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この題名をみて、神を信じなければならない理由がわかると期待されると困ってしまいます。私は疑問を投げかけているのですから。神を信じている人は幸せなのかも知れませんし、私はそれをとやかく言うつもりもその資格もありません。ただ、自分の問題として信じるべき理由がないということです。また神や宗教と敵対したいと思っているわけではなく、私の率直な意見を述べてみただけです。人によってお気に障った場合はご容赦下さい。

◆神を信じることはよいことか

  神を信じたものは、死んだら天国に行けると言われます。なぜ信じれば天国に行かせてもらえるのでしょう。なぜ神は自分を信じるものだけをえこひいきするのでしょうか。信頼できる人を信じることは尊いことでしょう。しかし、理由もなく人を信じることは、必ずしもよいこととは言えません。わけもわからず人を信じてだまされた人はたくさんいます。だまされると自分だけの問題に留まらず、人にも迷惑をかけることが多いといえます。うかつに人を信じてだまされる人にも責任があります。人を信じるには信じるための根拠か必要であるように、神でも信じるには信じるための根拠が必要ではないでしょうか。

◆神はなぜ信じることを求めるのか

  それになぜ神は信じて欲しがるのでしょうか。愛情に飢えている子供みたいではないでしょうか。神が創造主で、信じることを人間に求めるなら、無条件で信じる人間を作ればよかったのではないでしょうか。神が人間に信じて欲しいと思うこと自体も奇妙な話ですが、創ってしまった今の人間どもに信じて欲しいならば、信じさせるだけの証拠を皆に見せればいいだけのことではないでしょうか。このようにいうと、神を試してはならないと言われます。結局問答無用ということです。旧約聖書の中では神はもっとわかりやすく威力を人々に見せていたはずではないでしょうか。

  信用される人はあまり自分を信じろとは言わないのではないでしょうか。ましてや、罰をちらつかせて信じることを迫るというのは、驚くよりあきれるほかありません。その人のやることをよく見ていれば信用できる人かどうか、大体わかります。私には今まで神を信じられる経験をしたことがありません。自然や宇宙のことを考えるたびに、驚異を感じずにはいられません。しかし、そのことは自然法則以外に神が力を及ぼすことを信じる理由にはなりません。うかつに人を信じないように、私はうかつに神を信じる気になれないのです。

◆神を信じないことは罪なのか

  また、天国に行けるかどうかを、なぜ神を信じたかどうかで区別するのでしょうか。この世において善行を積んだかどうかであれば、私にも納得できるのですが…。神を親に例えてみて、親としてわが子が信頼してくれれば、親は子供をよけいにかわいいと思うでしょう。でも、何か理由があって子供が親を信じなければ、親は子供をかわいいと思わないでしょうか。親を信じることができない子供を憐れまないのでしょうか。信じてくれなくても嫌われても、子供を愛する親もいます。神はそのような親ほどの度量も寛大さもないのでしょうか。

  つい最近、津波で20万人以上の人々の命が奪われました。神があるなら、なぜこのようなことが起こるのでしょう。幼い子供を含めてそのほとんどは、けなげに生きていた人々ではないでしょうか。彼等は罰せられたのでしょうか。それとも生き残った人々への見せしめとされたのでしょうか。もし神があるなら、そのようなことはやめてほしいと、私は言いたいのです。神の威光を人間に知らせたいならば、悪い人間のみを、人々にわかりやすい形で罰してくれるだけで充分ではないでしょうか?

◆神は道徳のために必要か

  人間の道徳のために神は必要だという人もいます。誰もみていなくても神が見ていると思うからブレーキがかかるのだと言われます。子供に対する方便として、使うのならそれでよいかも知れません。しかし、哲学的に考えるためには、それではすまないはずです。神が見ていなければ、人は悪いことをするのでしょうか。私はそうは思いません。私が悪いことをしたくないと思うのは、他人に同じことをされるのがいやだからです。また他人は自分と同じように尊重されるべきだと思うからです。自分が傷つけられるのがいやだし、他人が傷つくのを見たくないからです。道徳に必要なのは、人間同士尊重し、いつくしみあうことではないでしょうか。神をかたって自爆テロで罪のない人々を殺傷する人間もいます。人間愛と神とどちらが道徳に必要かは、明らかではないでしょうか。