◆哲学は役に立たない学問か
  多くの人々は、哲学は役に立たない学問の代表のように考えている。一方、多くの哲学者は、哲学は人生に不可欠なものであると主張しながら、何が正しいかを教えてくれない。彼らは何が正しいかではなく、ただ考えることが大切だと言う。哲学が一般に常識的とされている考えについてもそのまま受入れるのではなく、その考えの根本を問いただすものであることは正しい。しかし、問いただすだけで何が正しいとかいうことを抜きにして、ただああでもないこうでもないと考えて時間を費やすことが、本当に人生において大切なのだろうか。忙しい社会人は、忙しい生活を改めて、ああでもないこうでもないと考えるべきなのだろうか。それとも、忙しいから哲学は無用だと割切るしかないのだろうか。

  僕はどちらも間違っていると思う。忙しい社会人にも哲学は不可欠のものであるし、忙しいのに、何が正しいとかいうことを抜きにして、ただああでもないこうでもないと考えて時間を費やす必要はない。哲学なしにはああでもないこうでもないというように、取りとめなくなくなりがちなのを、哲学によりひとつづつ整理し解答を与えていくことができる。哲学は全ての学問を包含するものであるし、個人の人生、社会のあり方も、その検討の対象にするものだし、それでなければ哲学とは言えない。

  哲学は、考えの根本を問い直すことに始まり、その根拠を確認した上で、考えを蓄積していくことができると思う。そのプロセスでいくつか重要なポイントがあると思う。ざっと思い浮ぶのは、(a)すべての存在そのものを否定することが無意味であること、(b)宗教の優劣は結論がでないこと、(3)宿命論は無意味であること、を確認することではないだろうか。

◆すべての存在を否定するということ
  まず、すべての存在を否定するという考え方は、自分にとって確実に存在が確認できるのは、感覚以外にないことに基づいている。確かに、自分が見えている世界が幻でないという証明はできない。あると思うのは、見て、触って、音を聞いて、臭いをかいで、味を見て、そう思っているのである。夢でもいろいろなものを見たり聞いたりし、それが現実だと思っているが、目が覚めてから、それらは自分の意識の中にしかなかったことに気づく。目が覚めて現実だと思っていることが、はたして幻でないといいきれるのかと、考えると、確かにそのような証明はできない。目が覚めたと思っていたらそれも夢だったという夢を見たことも現にある。

  しかし、そこで重要なことは、そう考えるということは、全ての人々の存在を疑わなければならないということだ。しかし我々の考えるべき人生は、自分以外の人々が存在するという前提の中での人生ではないだろうか。親兄弟や友達、職場の人々に向って、「あなたの存在が哲学的に確信できない」と言うことにどのような意義があるのだろう。また、一切の人々の存在しない空虚な世界における人生や真理を想定することにどのような意義があるのだろう。

◆宗教の優劣について
  つぎに宗教の優劣について考えよう。昔から宗教は争いの原因になっている。宗教は「ひと」という動物に特有の思考現象だということができるだろう。宗教を信じない人間が常にいる一方、人間がいる限り宗教がなくなることはおそらくないだろう。宗教は科学そのものを否定するので、特定宗教の正当性を科学で証明することはできない。すなわち客観的ものさしがないということだ。

  ある日僕が事故にあったとしよう。AさんはA宗教を信心しない罰が当ったのだという。Bさんは「イワシの頭」を信心しない罰だという。ある日Aさんが事故にあって、彼の言うことを聞くと、「あの事故で自分は死んでいてもおかしくないのに、命が助かったのは、A宗教を信心していたおかげだ」と言う。Aさんは自分の言葉の身勝手さに殆ど気が付かない。確かにAさんの言っていることが誤りであると証明することはできない。でも同様にAさんは僕の事故がA宗教の罰で「イワシの頭」教の罰ではないということも証明できない。「神」と「イワシの頭」を比べるのは冒涜だと思うだろうが、この場合論理的にはどちらでも同じだ。

  このように、どの宗教を信心すればいいのかを考えて何年かけても、結論はでないということになる。「A宗教」を信じる人にも「イワシの頭」を信じる人にも、人生には良いこともあれば悪いこともある。良いことや悪いことが起った原因を科学的に考えた方が、前向きで意味があるのではないだろうか。

  神という偉大な存在があるならば、たまたま縁があって異なったかたちの信心をしたからといって、独占欲が強く嫉妬深い人間のように嫌がらせの罰をくだすような狭い了見はないだろう。また、威張りたがりやのおじさんのように、自分に対して最敬礼して礼拝しないとけしからんと懲らしめてやろうと思うようなつまらない人間のような存在でもないと思う。ましてや真剣に考えて、神の存在が納得できないから無信心でいる人間を罰するような理不尽な存在ではないだろう。

◆宿命論について
  宿命論について考えてみよう。自分の人生を振り返ってみると、自分のたどってきた道は、1本しかないことに気づく。それぞれの時点では無数の選択肢があったはずだが、常にいずれかひとつを選択して現在にいたっているのだ。そこで、その都度選択肢があったと思うのは錯覚で、本当は最初から道は決っていたんだと言われれば、そうでないと証明することはできないだろう。子供の心理をよく知った大人が小さな子供をうまく操ることもあるように、自由意志があると思わせて神様はうまく僕らをあやつっているのではないだろうか。そう信じている人にそうでないと証明することは不可能かもしれない。

  しかし、少なくとも自分の身体は自分の意志で動いていることは確かではないだろうか。健康な人間でAの道を行きたいのに、身体がBの道をいってしまうということはない。もちろん、その都度、事情があって本来自分の望みと異なるものを選ばざるを得なかったということもあるだろう。しかし、あくまでも最後は自分で決めたのだし、振り返ってみて自分がAの道を選んだことに自分の意志と無関係に物事が進んできたのではない。誰かが自分を操ったという証明もできない。自分の身体が自分の意志で動くのに操られているのではないかと疑うことにどれだけの意味があるのだろうか。どうあがいても、操られているという結論がでないし、現に自分の身体は自分の意志で動くのだから、自由意志はあると考えて何の不都合があるのだろうか。

  ただし、これは自分の思うことが何でも実現するという意味ではない。現実の社会は、多くの人々の意思や様々な環境や情況、歴史的背景が複雑にからまっており、個人の思い通りにことが進まないことが往々にしてあるのは当然である。そのような複雑な情況を運命という言葉で単純化しようとしているだけに過ぎない。物事をうまく運ぶために必要なのは、神様のご機嫌をとることではなく、この複雑な情況をできる限り正確に理解し、適切に対処することを考えることだろう。

  人生には考えるべきことは山ほどある。考える必要のないことを見極めることは、考えることの第一歩だ。