早くも3つ目の投稿ですが、色々な書簡などを晒していこうという計画は儚くも(研究している本以外を読みたくないという理由から)崩れ去りました。

 

僕は数か月前に失恋をして以降かなりのペース(一日平均1クール程度)でアニメを見続けていますが、やはりその中で哲学的な内容のものもちょっとあるわけです。個人的に驚いたのは、「まおゆう魔王勇者」です。そもそもこの監督の高橋丈夫という方が担当している作品は面白いものが多いのですが、まおゆうはキリスト教神学的な内容も含まれておりなかなか興味深い、

 

私がおすすめするとすれば、やはり9話、異端として捕まったものが演説によって民衆の心を動かすところがあるのですが、何とこのシーンは演説だけで10分くらいあり、しかも内容はかなり濃密です。

 

この演説では、自由がテーマとなります。自分が何かを決める時、他人が決めているから決めるのか、自分の意志で決めるのかが大きな違いを生む。そして自分の意志で決めることが出来る自由を神は与えたのだ、と演説は始まります。ここの「自由」は「罪を犯す自由」というのも含まれているのですが、それは神学的には「自らの意志で正しい行いを理性によって判断し実践できる」ことに価値を見いだすためです。

 

よってここで演説している従者も次のように言います。(パラフレーズしますが)「私に石を投げても構わない。あなた方にも家族があり生活があるだろう。しかしもし石を投げる時、それは自分の意志で判断しなければならず、他人に命じられたから投げるのであればそれは虫と変わらない。」

 

ここで民衆は熱狂するのですが、注意すべきは、ここで神を直観し自らを運命に投げ入れている従者と、その自己犠牲の姿に陶酔している民衆とは異なるものだということです。彼らは神の感じ方が本質的に異なるのであり、民衆は従者自身に神を見いだすのです。よってこの「まおゆう魔王勇者」では従者は聖人として扱われることになるのです。

 

荒々しいですが、こんな感じでアニメに堅苦しい解説を加えてみました。

アニメというのも、実はその意味を読み取ろうとすることで簡単に哲学の議論と結びつけることが出来ます。

それは、哲学が現実の世界における経験に基づいたものであるからにほかならず、その経験を何処までも下って行きながら、議論によって積み上げていくものだからです。普通に見たらめんどくさいでしょうが(笑)