―――ということで。

 

前稿で予告しましたように、今回は家康(=元康)の正室である、

 

瀬名(せな)

 

をテーマにお話したいと思います。


服部半蔵らによる救援が未遂に終わり、どうする!? となっていた瀬名姫。

 

有村架純さん演じる、愛らしいキャラクターとして、大河ドラマ「どうする家康」では設定されていますね。

時代考証を務める小和田哲男氏は、その公式YouTubeにおいて、ドラマの設定のように、

元康と恋愛結婚だった可能性もあり得る、と述べておられました。

 

もしそうなら、現代人の私たちにとっては、ちょっと親近感が湧いてきますよね。

 

そもそも、この瀬名姫、なぜ「瀬名」という名前なのでしょうか。

 

瀬名ちゃん

 

というと、最近生まれた子どもの名前としても、通用しそうなかわいい名前です。
 

―――でも。

 

この「瀬名ちゃん」という名前は、女の子の名前を「桶狭間ちゃん」といっているようなもので、もともとは地名なのです。

今川館(JR静岡駅北、駿府城公園)の北東6キロほどの場所にある、

 

静岡市葵区瀬名(しずおかし あおいく せな)

 

という場所にあった、

 

瀬名館(せな やかた)

 

とよばれる居館で生まれたからだというのです。

(現在、その跡は宅地化していて、明瞭ではないようです)

 

 

そもそも戦国期の女性の本名となると、数えるほどしか伝わっておらず、瀬名姫ものちに、

 

築山御前(つきやま ごぜん)

 

といわれたように、地名由来の呼称が多いのです。

 

―――それはさておき。

 

瀬名館というのは、瀬名姫の父・関口氏純(せきぐち・うじずみ。ドラマでは渡部篤郎さん演じる)の元の住まいでした。

 

 

では、なぜ関口氏なのに「瀬名館」にいるのでしょう?

 

もともと関口氏純は、

 

瀬名氏

 

の次男坊で、その兄は桶狭間の戦いにも従軍した、

 

瀬名氏俊(せな・うじとし)

 

でした。

 

その瀬名氏の初代が、

 

瀬名一秀(せな・かずひで)

 

という氏俊の祖父で、もともとは今川氏の一族なのです。

 

遠江の今川氏の系統で、そのころ瀬名に住んでいた今川一秀瀬名氏を名乗り、範忠の弟今川範頼も、小鹿に住んでいたことから、以後、小鹿氏を名乗るようになっているのである。(小和田哲男.“駿府と今川氏”.『復権‼ 今川義元公の実像に迫る:今川義元公生誕五百年祭記念』.今川義元公生誕五百年祭推進委員会 協力.静岡新聞社,2020年,p.79.)

  

 

上記の引用文中にある、一秀・範頼(のりより)兄弟は、今川範忠(=今川氏本家5代目当主。今川義元の曾祖父にあたる)の息子たちのこと。

 

「瀬名氏」の先祖は、今川貞世(いまがわさだよ)(後に了俊(りょうしゅん))で、晩年の一時期に瀬名に住んだことが「瀬名氏系図」に記されている。その5代後の瀬名一秀は、今川氏親(義元の父)の後見人として二俣城から移り住み、正式にここで瀬名氏を名乗った(出典:大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ.家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて - 瀬名地区方面 (visit-shizuoka.com) 、(参照2023-03-05).)

 

ということなのです。

 

 

そして、「今川氏系図」(『土佐国蠧簡集(とかんしゅう)残篇四』)には、

その今川一秀=瀬名一秀の姉妹のひとりに、「関口刑部少輔妻 別腹」と脇に書かれた女性の名前があります。

 

この「関口刑部少輔」とは関口氏純、

「別腹」とは、瀬名一秀と腹違いの姉妹であることをそれぞれ指していると思われます。

 

この関口家というのも、氏純から数えて8代前の経氏を祖とし、

また、その経氏の父は今川氏本家(惣領家)初代の国氏に連なっていきます。

なので、

瀬名家が今川氏の本家7代目(範忠)からの分家なのに対し、

関口家は今川氏の本家初代(国氏)からの分家となるため、

今川一族の重臣の家ではなく、一族の遠い親戚に、氏純は養子に入った

 

―――ということになるわけです。

 

その氏純の正室=瀬名姫の母は、ドラマでは「巴」の名で、真矢ミキさんが演じていらっしゃいますね。

先に瀬名一秀の姉妹が氏純に嫁いだらしいことをお話ししました。

 

が、じつはこの巴さんは、時代考証の小和田氏によれば、以下のような出自だというのです。

 

氏親・氏輝のときには遠江の井伊氏が義元に臣従してきた。井伊直平が娘を人質として義元に差し出してきたのである。『系図纂要』に、・・・(中略)・・・とあり、直平の娘が義元の内室になっていたとみえる。・・・(中略)・・・直平の娘の場合は側室ということであろう。家臣から人質として取り、それを側室にしたケースは結構ある。ちなみに、彼女は、その後、義元の家臣関口親永(義広)に嫁ぎ、そこから生まれた子が築山殿、つまり、徳川家康の正室である。」(“今川義元の三河侵攻と遠江の武将たち”.戦国静岡の城と武将と合戦と.小和田哲男.静岡新聞社,2020年,p.73-74.)

  

 

氏親は今川義元の父で、氏輝はかつて当主の座をめぐり争った兄。

 

まとめますと、

 

本家今川氏の分家筋である今川了俊から数えて、5代目当主・今川一秀が「瀬名」の地に所領を与えられ、瀬名を称した。

 

①その瀬名家初代当主・一秀と腹違いの姉妹である女性が、今川氏本家(惣領家)初代・国氏から分かれた関口家に嫁した。

その夫が、一秀の孫で関口家の養子となった関口刑部少輔=関口氏純。

 

②今川義元の先代から臣従した井伊氏の当主・直平の娘が、氏純に嫁した。

 

いずれにしても、おそらくまだ氏純が持舟城に移る前、瀬名の地にいた頃に産まれたのが瀬名姫。

 

①の説が正しければ、瀬名姫は今川氏の純血。

②の説が正しければ、瀬名姫は今川氏+井伊氏の混血。

 

②の説は小和田大先生の説なので、自説?と併存させるのもおこがましいのですが、

とりあえず本稿では、読者の皆様の想像を楽しませるため、2説ならべておきますおねがい

 

いずれにしても、瀬名姫には今川の血が流れているわけですね。

徳川の世をつくった血の一部になったのです。

「今川死すとも、その血は死せず」―――