とうとう、第5話が放送されました。NHK大河ドラマ、

 

どうする家康

 

ですが、このブログも、番組の進行に順調に遅れていきそうと思っていたところ・・・

 

 

 

第4話で、ちょうどよい展開が。

 

第4話、まだ録画などされてまだ御覧になっていない方は、

このあとの話、ネタバレがございますので、ご注意を。

 

清須での信長・家康(当時の名は「元康」。以下、こちらで表記します)の面会の場面。

 

まだ草履取りとして登場してきている、ムロツヨシさん演じる

 

木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)

 

が、説明していましたね。あの、

 

桶狭間の戦い

 

のことを。より具体的には、

 

大高城

 

の救援を、信長がしなかったことについて。

 

「たまたま義元を運よく討ちとれただけ」との論調で、信長に詰め寄った元康。

その戦略について、藤吉郎は、信長が大高城を、

 

じわじわと追い詰め、決して落とすな

 

と指示したとのこと。

 

これにより、大高城の救援に向かっていた今川義元を、まんまとおびき寄せ、そこを討ったというのでした。

 

このドラマをみていると、いわゆる

 

大高城の兵糧入れ(ひょうろう入れ)

 

と世に称されている、元康率いる三河衆の功績は、霞んでしまいますね。

 

家康は大高城の前面にある丸根砦鷲津砦の目をそらすため、わざと奥にあった寺部梅ヶ坪の両砦を攻めさせた。このため丸根・鷲津の両砦から後詰めの軍を寺部と梅ヶ坪両砦に出したのである。/家康は、それを見定めると、四百五十俵(三二・四七キロリットル)の兵糧を馬百五十匹を使って大高城に向け運び込む。馬一匹に三俵を背負せ、五十匹を一グループとし、三つに分け、一グループそれぞれ小荷駄五十匹に五十人の兵をぴったりと張り付かせ、半町(約五四メートル)離れて、右手備え百人、左手備え百人を配置して、小荷駄の周りを兵で囲ませ進んだ。この他にも兵を遊泳させて、一千百人で信長方の領地を突破したのだ。/盛重ら信長方はこれに気づくが、出撃して、家康の小荷駄隊を襲う兵力はなく、地団駄踏んで、家康の大高城への兵糧搬入を見守るしかなかったのである。(『戦国 佐久間一族』新人物往来社、2004年、47頁※)

 

と、楠戸義昭氏は、上記著書の中で説明しています。

(※ただし、この引用箇所については、出典が明確な書き方をされていません。最も近接した直前に出てくる史料は『佐久間軍記』ですが、そこからの引用かどうかは、はっきりしません)

 

 


文中の「盛重」とは、佐久間大学盛重のこと。ドラマには出てきませんでしたが、信長より丸根砦の守備を任されていた、佐久間氏でも勇猛で知られた武将だったようです。

 

この楠戸氏の説明が事実であるとすると、

 

「待ち」と「策略」の天才🌟

 

と、前々稿で評しておいた家康の天才性の片鱗が、元康時代から顔を見せていたことになります。

 

でも、この作戦も戦巧者の家臣の入れ知恵によるものかもしれませんね。

 

 

 

この軍略はひじょうに具体的に描かれていて、策略のにおいがプンプンします。

 

が、それが事実であるかはともかく、上記の引用文には注目すべき箇所、

 

寺部梅ヶ坪

 

が登場しています。

 

実はこれらの地にそれぞれ城があったらしいのですが、場所は現在の豊田市

桶狭間の所在する名古屋市緑区・豊明市あたりとは、かなり離れた場所(直線距離でも15㎞ほど)にあります。

 

当時の古文書・古記録をさがしてみましたが、大高城の兵糧入れの頃(永禄3年5月ごろ)に、この両城が攻撃された形跡はみあたりません。

 

 

今後、ドラマの中でも

 

小牧・長久手の戦い = 秀吉猿  v.s. ナイフ家康

 

が描かれることになるかと思いますが、

秀吉軍が家康軍に対して採った戦術である、

 

三河中入り(みかわ なかいり)

 

作戦において、秀吉が兵を割いて岡崎を襲撃し、本拠地を守るために家康軍を撤退させるという方法をとったように、敵方の兵力を分散させている間に、大高城の兵糧入れを成功させた、ということなのでしょうか?

 

 

その真偽はともかく、

 

もう、いやじゃああああ!!」(第1回放送)

 

といって、戦場から逃げ出したり、

 

すべてが罠だったなど、あり得ぬ。そんな芸当ができるのは、軍神(いくさがみ)ぐらいなものじゃ!!」(第4回放送)

 

などと狼狽する家康のダメっぷり? は、本当の家康像を当時の記録からは、なかなか想像しづらいですね。

 

『三河物語』

 

には、杉浦八郎五郎という家康の家臣の進言を容れた家康が、大高城の兵糧入れを成功させたと書かれています。

 

また、

 

城ヲ明ケ退キ、若又(もしまた)、其の儀、偽りニモ有ナラバ、二度義元ニ面ヲ向ケラレン哉。

、人之サゝメキ種(わらいぐさ)ニ成ならば、命ナガラヱて詮モ無シ(『三河物語』中 第二より、太字部分を注によって改め、ひらがな部分は読みやすく補いました)

 

という、かっこいいことを言い、つづけて「だから、どこかからでも確実な情報がないうちは、絶対に退却しない」(『現代語訳 三河物語』ちくま学芸文庫、2019、112頁)と主張したというんですね。


 

 

 

 

 

どうする家康

 

と狼狽するというよりは、19歳(満18歳)なのに、かなり肚の据わった人物だったのかな、と思います。

 

ドラマでも、清須で織田信長と別れるシーン(第4回)など、かなりかっこいいことを言っていましたね。

 

 

そして最後に。

 

この第4回放送「清須でどうする!」ですが、そもそも信長と元康の約20年にわたる長期同盟として有名な、

 

織徳同盟(しょくとくどうめい)または清須同盟

 

も、同盟関係はその後の歴史をみれば事実は疑いないのですが、

清須で両雄が会見した点については、以下のようなことが定説になっています。

 

文書はもちろん、『信長公記』のような信憑性の高い史料には、まったくそれをうかがわせる記載がないのである。それのみか、『甫庵信長記』『松平記』『三河物語』といった、江戸時代初期に成った二次史料にも記述がない。/以上述べた通り、永禄五年一月に元康が清須を訪れたということは、否定したほうがよい」(『信長と家康の軍事同盟―利害と戦略の二十一年―』谷口克広.吉川弘文館、2019、66~67頁)


 

 

 


というわけで。


今回の稿では、大河ドラマの脚本が歴史学の見解とかなり異なっていることを指摘しているだけ? になってしまっていましたが、

 

「待ち」と「策略」の天才🌟

 

としての家康像を紹介していくのが、このシリーズの目的ですから、御容赦ください。

 

つい、桶狭間の話が長くなってしまいました。

もっと話したい論点があったのですが、ドラマの放送とどんどんずれていきそうなので、ひとまずここまで。

 

すでに第5話「瀬名奪還作戦」が放送されていますね。

第6話はそのつづきだといいます。楽しみですね。

 

そこで次の稿では、

 

瀬名姫

 

をメインテーマとしようと思います。

 

お楽しみに~ニコニコ