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昨日、原宿にある『デメル』にお茶をしに行きました。
、、、が、、、、

8月一杯で お店が閉まっていましたしょぼん

大好きなウィーンの雰囲気を感じれる場所、で好きだったのですが、、、
残念です。


音楽の都、ウィーン。
日の沈まない帝国と言われた、ハプスブルク家(デメルもハプスブルク家御用達でしたネ)が、双頭の鷲を刻み込んだウィーン。

ウィーンには、様々な魅力がありますが(世界で1番住みやすい街にも選ばれたことがあるようです)
私が1番思いうかべるのは、音楽の都、と共に、聖母マリア様です。

何故マリア様なのか?
という所以を説明させてください。

6年前に、ウィーンを訪れた際にペーター教会という、ウィーンでも古い教会に寄りました。
中に入り、ふと横をみると、そこには聖母マリア様の絵がかけてありました。
その絵を観たとたん、涙があふれてとまらなくなってしまいました。
私はクリスチャンではありませんが、その絵の前から離れられなくなってしまうほどで、心の内側からこみあげるものを押さえるのに必死になるくらい、完全に理性を失った状態でした。
夫に促されて外にでましたが、何だったのだろうな、と思いながらも、観光したり、お茶をしたり、そして次の場所、シュテファン寺院へ行き、椅子に座ってしばらくすると、上方のステンドグラスから、曇りだった空が明るくなり、光が射し込んできました。
それを見た瞬間、やわらかい光が至福と共に、体を包んでくれた気がしました。その感覚は、母の腕にだかれたようで、慈愛、そのものでした。

その頃の私はとても疲れていたので、無意識のうちに癒されたいという思いがこのような出来事をひきつけたのかも知れませんが、
気付くと元気になっていて、それはきっと、慈愛という愛に満たされたからだなと思いました。

その日から、私の人生、私自身に聖母マリア様は寄り添ってくれることになりました。
それは、クリスチャンになるとか、聖母マリア様の姿を見た、とかそういうことでなく、折に触れ、思い出す、ということによっての寄り添いです。

おそらく、聖母マリア様、というより、実際は慈愛、そのもの、と言ったほうが真実かも知れませんが、 この慈愛に満ちた、聖母マリア様(のような愛のエネルギー。) を、また先日、感じることがありました。
その日も、心が疲れていて、眠れない夜を持て余していました。
ふと、ある方のブログを拝見したときに、その愛に涙がとまらなくなり、ずっとずっと、声を上げて泣きました。 しばらく泣いたら、心が浄化されたのがわかり、すっきりしました。
その方は男性で、いわゆるヒーラーの方ですが、その誰かに向ける愛、それもものすごい慈愛に、聖母マリア様、神の愛のようなものを感じました。

その時、気付きました。
聖母マリア様、実際にいらっしゃると思いますが、それは特別な時や特別な事でなく、教会に行ったから会えるというわけでなく、人を通して、様々な出来事を通して、誰かの表現を通して、体現されているのだなぁ、と。
誰かの言葉、誰かの表現した音、絵、文章、行動、行為。
その様々なことに共通することは、その種(動機)だと思います。
それは、誰かを思う愛、誰かをいたわる気持ち、誰かを包み込んで、哀しみをなくしたいと思う気持ち、
愛を持って、人と寄り添うこと。

だから、誰か特別な人が、というより、その気持ちがあれば、誰かにとっての聖母マリア様であり、ヒーラーなのだと思います。

私は芸術が好きですが、その芸術も突き詰めれば、自己満足だけの表現でなく、誰かに愛を発信する、誰かが元気になるように、哀しみが癒えますように、と祈りを共にした表現から生み出された芸術、が狭義の意味での芸術、なのではないかと思います。


さて、私はどうかと言いますと、まだまだ誰かにとっての聖母マリア様やヒーラーには、到底なれそうにありません。
受け取るだけでなく、少しでも与えられるように、人生を終えるまでになれたらと、切に思います、、、。
それには、まだまだ改善しなければならないことがたくさんです。


デメルやウィーンから随分と話がとんでしまいました(笑)。 ガーン

今回も気付きをもたらしてくださった方々、事柄に、感謝します。
こうしてみると、生きるとは、突き詰めれば、感謝の連続なのですね。

愛を感じさせてくださってありがとうございます。
今日皆様が、たくさん愛を感じることができますように。
愛し、愛されますように。ニコニコキラキラ
今日は第九について書きたいと思います。

ベートーヴェン作曲、フリードリヒ・フォン・シラー原詩
交響曲第9番 二短調 作品125より
第4楽章の歓喜の歌、は誰もが何度も耳にしたことのある曲ではないでしょうか。

息子の通っている小学校では、入学式の日に、生徒が新入生をこの4楽章のサビの部分をドイツ語で歌い、歓迎するということが毎年行われています。

息子は幼い頃からこの 歓喜の歌が大好き。
ある時はタクト(ペンで伸ばすとタクトのようになる)で指揮をし、歌い、ピアノを弾き、気分はすっかりベートーヴェン。
ベートーヴェンが指揮をしているTシャツワンピースまで持ってます(笑)ガーン

彼に、何故そんなに第九が好きなの?て聞くと、『だって歓びだから。最後は歓びになるから。』との答え。

私も大好きな第九。それがますます大好きになったきっかけが、
数年前、佐渡裕さん指揮による第九を聴いたことにあります。

大好きな佐渡裕さんによる、大好きな第九。キラキラ
1楽章から4楽章まで、1時間以上という、長い曲だけれど、あっという間に引き込まれます。

1楽章2楽章までは人間の苦しみや葛藤のイメージ、それが3楽章から穏やかで平和で微細なメロディーが奏でられ、しょぼんこの3楽章からいつも泣けてきてしまう。しょぼん 4楽章で、今までの苦しみや哀しみが、昇華していく。そして人間が到達する場所。調和。深さを持った歓びに満たされた光に包まれ、人類皆兄弟となる。

その瞬間、本当にコンサートホールが一つになったのが、今だに忘れられません。
演奏している方々も、聴衆も、みんなが満たされている。歓びと光に包まれている。そこには誰も傷ついている人がいない。至福で、最高の瞬間。
涙が次からつぎへと溢れ続け、ふわふわと浮いているような感覚になりました。
この時以来、私は第九に取りつかれ(笑)、
毎年一回は第九を聴きに行かないと気が済まなくガーン
昨年は車で大阪まで行き、佐渡裕さんの第九を聴いてきました。
あの至福の経験は、一度きりだと思っていたのに、毎回聴いても涙がか溢れて止まりません。
自分の細胞ひとつひとつが、活性化され、浄化していく感じです。

音楽の起源は、祈り、だと聞きます。
確かに、昔から、日本でも世界でも祈りとしての歌、聖歌がたくさんありますよね。

佐渡さんの第九は、いつも祈り、だなと思います。 私の勝手な推察ですが、佐渡さんのタクトを持つ手が、途中から祈りを捧げる手にいつも見えるのです。

そして、この第九、自体も、祈りというか、まるで人類の創世記から始まる壮大な歴史のドラマを感じます。
このように色々と、妄想もかなり入っていると思いますが、考えてみても、第九は素晴らしい曲だと思います。

シラーの詩をみて、いつかこれを曲にしたいと思って、第九を創りだした、ベートーヴェン。

この曲には、みんなの祈り、希望、が込められている気がしてなりません。

1824年、ウィーンで初めて、第九が演奏され、指揮台には耳が殆ど聞こえないベートーヴェンが 立っていました。
演奏を終えた瞬間、ものすごい歓声がホール一杯に轟き、皆がスタンディングオーベーションでベートーヴェンを讃えましたが、ベートーヴェンにはその歓声が聞こえません。側の人に促され、振り向き、その歓声を知ったそうです。

約200年前の人達と同じように、今も変わらず私達も感動へと誘われる、第九。
人類皆兄弟という、その歌声は世界中の人達とつながっている、現在も過去も未来もつながっている。
調和と愛を感じる、
そういう幸せなエネルギー私達の祈りが天に向かって、直線になってすうっと登っていくようです。

長くなってしまいましたが、第九を聴けること、創りだしてくれたベートーヴェン、きっかけとなったシラー、そして演奏してくださる方々に感謝です。ニコニコ

今、シュタイナー著 音楽、芸術論の本を読んでいます。

シュタイナーは、全ては調和とリズムにより成り立っている、という観点から、様々な分野で 取り入れられているようです。

オーガニックコスメ、Drハウシュカも、シュタイナーの考えに基づき作られているとか。


息子の幼稚園を考えているとき、一時はシュタイナー教育の元でと思ったほど(結局遠くて断念あせる)、
教育の本などを読んでいました。


そして先日、ふらりと立ち寄った本屋さんで、前から読みたかったこの本本を見つけたのですキラキラ

少し難しくて、なかなか読み進められないけれど、 なるほどと思うことがたくさんです。

また続きをブログで書いていこうと思ってますニコニコ