最近曇り
の日が 続いていますね。
今朝、ニュースを拝見していました。
その中で、チェルノブイリ・ハートという 、チェルノブイリ原発事故後、子供達はどうなったか、というドキュメンタリー映画の紹介をしていました。
上映時間の20分の1ほどの時間だったでしょうけれど、その悲惨さを伝えるに充分の内容でした、、、。 それくらい、悲惨な『事実』をたくさん見ました。
そのたくさんの『事実』の中で、
今日は、原発についてというより、人間の心について感じたことを書きたいと思います。
場所は病院。
チェルノブイリ原発事故による、放射能の影響で、たくさんの『体の』障害を持った子供達がたくさん生まれたそうですが、
その一人の子が、看護婦さんにぞんざいに扱われていました。
NPOの方か誰かが、
『もっと優しく接してあげてください』
とおっしゃると
看護婦さん、
『だってこれ以上大きくならないじゃない』
とおっしゃって、物を扱うように片手で その子を掴んでいました。
物事は単純ではありませんし、
色々なバックグラウンドがありますから、
もしかすると、その看護婦さんは、毎日悲惨な状況に接していて、無力さなどを感じた上のその行動だったのかも知れません。
その看護婦さんについての言及をするつもりはありません。
人間が普段、見て、考えて、行動していることについて、ふと、感じたことがあります。
私達は、普段、見る、というと、二つの眼球により、視覚したものを情報源にしていますが、
その情報だけだと、正しいことは わからないなぁと思いました。
例えば、先程の子供は、『体』の障害があって、大きくならない、
眼球に見えるのはその姿ですが、
でも、だから何なのでしょうか。
大きくならなかったら、一人前でないのでしょうか?
欠陥なのでしょうか?
心はどうなのでしょう?
体の大きさや体型でその人の心、魂を全部判断できるのでしょうか?
ピアニストの辻井伸行さんが、ヴァンクライバーン国際ピアノコンクール優勝後の記者会見で、記者の 『もし目がみえたら、ご両親のお顔を見たいですか』みたいな、そのような質問に対し、
『でも、心の目でみえているので』
みたいなことをおっしゃっていましたが、
本当に視る、というのは、心の目、なんじゃないかと思います。
人は見た目で 人を判断してしまいがち、
その見た目とは、
ある時は容姿、
ある時は肩書き、
ある時は生活環境
などなど。
でも、それだけでは
その人が 本当にどんな人かは、殆ど見えていない。
その人にどれほどの深さがあるかはわからない。
見てるのはたくさんの層のほんの一部、表面だけなのだから。
『障害』という言葉があるけれど、
体の障害ばかりクローズアップされるけど、
心の障害は?
意地悪な人は 心の障害ではないのかしら。
人を傷つけ、痛め付ける人は 心の障害者、なのではないかな。
何故、体だけ言われるのだろう。
障害、の定義ってなにかな?
それをいうなら、私達みんな、完全な人間なんていないから、みんな障害を持っていると思うけど。
などなど、ニュースを見て色々考えました。
と、同時に、
自分もそういう偏見を一度も持ったことがないか、
そういう 差別をしたことがないか、と言ったら あるので、 反省しました

愛の人、マザー・テレサの行動、が真実を伝えていると思います。
さっきの考え方だったら、もう亡くなるのだし、看病しても一緒、と
なるのでしょうけれど、
最後の一瞬でも
愛された、その愛に満たされた、 その愛であちらに帰ることができれば、、、
そうやって、
微笑み、手をにぎっていた
それは、その目にみえる状態の判断より、
心に寄り添うこと、その人の心に触れ、心を愛した、ということなのだと思います。
心の目で見て、
心で判断できるように
そういう人になりたい。
誕生日の日に、
心から思いました。
今日も皆様にとって素晴らしい、素敵な一日になりますように

