2001年の9月11日、自分はニューヨークにいました。
舞踊団の一週間の休みの期間中でした。
もう20年か。
おそらく、昨日から世界中でもたくさんの人々あの日の事についてブログなどに書き込んでいる事でしょう。
本当にあっという間の20年。いや本当は本当にいろいろな事があった長い20年だったのですが。
2001年9月11日。あの日、自分はあの朝、所属していた舞踊団が一週間の休みだったのですが、歯医者の予約があって、世界貿易センタービルから4キロぐらいの場所にある歯科医のオフィスに向かっていました。
衝突した瞬間は地下鉄の中にいたので何も知りませんでした。一瞬停止したのですが、またすぐ動き出したのです。14丁目、8thストリートの駅に着いてから、歯医者に行くまでの間、何が起こっているのか本当に何も知らなかったのです。 当時スマホなどはなく、地下鉄は電波が入らない環境でした。
歯医者のオフィスに入ると、ラジオが事件を緊迫した様子で実況していました。でも最初、自分には何かの冗談に思えたのです。歯医者は「こんな状態だけど、とりあえず治療してしまおう」と言って、治療を終わらせました。幸い、治療といっても最終のちょっとした仕上げだけだったのですぐに終わり、外に出て、その方角を見ると、ワールド・トレード・センターが2棟とも無くなっているのです。巨大な煙がもうもうと立ち上っていました。
結局自分は、あの日あの場所にいながら、決定的な惨劇の瞬間をリアルタイムで見ていないのです。
周りにいた人たちも呆然と見つめていました。おかしな事に、偶然うちの舞踊団の教師にばったり会いました。彼女は「ブッシュが大統領になったせいだ」と言っていました。
取り合えず、すぐ近くのアメリカ創価学会のオフィスに行くと、すでに知り合いも何人か来ており、その中で自分と同じクイーンズに住む男性がいました。彼は自分がニューヨークに来たばかりのときに最初に出会った日本人の一人です。彼と一緒に、まるで民族大移動のような状態になった数万人の人々と歩いてクイーンズブリッジを渡り、やっとの事で我が家に帰って来ました。
遠くマンハッタンの方から立ち昇る巨大な煙、そして旅客機が一機も飛んでいなかったのを覚えています。
空軍のF16戦闘機が上空を旋回しています。しかしこれは救助のためではなく、テロリストに乗っ取られた旅客機が市街地に飛んできた場合、最悪の事態を避けるために撃墜するためなのです。
前日の10日の夜は激しい雷雨だったのです。惨劇の日の朝は皮肉な事にぬけるような快晴でした。前の晩、履いていた靴がびしょぬれになったため、その日は別の靴を履いて家を出たことを覚えています。
あの事故で亡くなった人々は、あの素晴らしい快晴の中、考えられる限りの凄惨な形で命を落とす事になるとは思わなかっ たでしょう。
それと、ふと思うのですが、前日の雷雨の中、あのテロリスト達は何を考えていたのかと考えるのです(彼らが飛び立った都市は雷雨ではなかったかもしれませんが)。思想は人それぞれだし、国や宗教民族によっても思想や道徳も違うのは当然ですが、自爆テロは究極の人間性の否定だと思 います。どの宗教でもそんな考えは正しいわけはありません。宗教の名をかたり、利用しているだけでしょう。
ダンサーというツアーの多い仕事をしていたのですが、飛行機に乗るのに緊張するようになったのもあの頃からです。空港で厳重なセキュリティチェックをしているものの、離陸した瞬間に爆発するんじゃないか、とか。
あるいはニューヨークの街でふと入った店がいきなり自爆テロに巻き込まれるんじゃないか、とか。毒ガスや細菌兵器の恐怖もありました。国民の心も恐怖に支配されていたと思います。海外ツアーの後、アメリカに帰国するたびに味わう、入国審査での審査官の無礼な態度。アメリカは変わってしまいました。
大勢の人々が亡くなったし、その人々には、その何倍もの家族、友人がいます。自分は誰も知人を亡くしていませんが、今でもあの日の映像がテレビで流れると思わず目を背けてしまいます。あの時期に買ったばかりでよく聴いていたスティーブ・ライヒのアルバムはあれ以来全く聴いていません。おそらく、あの日あの場所にいた全ての人たちが、何らかの形で多かれ少なかれトラウマを引きずっていると思います。
忘れたい体験や時期があります。でも、少しでもどんな形でも、あの日の事を語っていく事が、あの日あの場所にいて、今生きている人々の使命だと思うのです。
地震や感染症、地球温暖化、また紛争など、日本だけでなく世界全体が闇に沈んでいるように思えます。でも、夜明けの来ない闇がないように、春の来ない冬がないように、いつか世界の国々が他者を認め合い、温かい希望と愛で包まれる日が来ますように。