典子女王殿下のご婚約が27日、内定しました。女性皇族がご結婚による皇籍離脱が相次げば、皇族方の減少も現実味を帯びてくる。その話は後日にして天皇制最大の危機を話題に…

wiki/天皇制廃止論より抜粋
終戦直後、日本に対する諸外国の視線は厳しく、オーストラリアやアメリカの国民世論が天皇制廃止を支持していたほか、中国の蒋介石や孫科(孫文の息子)、イギリスのチャーチル、ソ連なども天皇制廃止を求めていた。

日本がアメリカ陣営に組み込まれたとしても、ロシア革命でロマノフ朝を子供を含む一人残らず殺害したように天皇家も消滅させるというのがスターリンの執念であった、そこから戦後日本では左翼・左派勢力は一貫して、不自然なほど「反天皇」「反皇室」を叫び続けることになる

アメリカの指示もまた天皇制廃止であったが、マッカーサーは天皇制によって日本国民を統合し、間接統治をした方がアメリカの国益に適うと判断したため、天皇制はGHQによって存置された

天皇制廃止や処刑を連呼する国際情勢をひるがえしたのは、天皇と親日家マッカーサーの結びつきでした。
マッカーサー

天皇とm

終戦直後の昭和20年9月27日、陛下が一人の通訳だけを連れて、マッカーサーのもとを訪れました。

マッカーサーは、陛下が命乞いに来られるのだと思いました。
ですから彼は、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしませんでした。椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、ですから陛下をあからさまに見下した態度であったわけで陛下の手は震えていました。

通訳

そのマッカーサーに対し、陛下は直立不動の姿勢をとられ、国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このようにおっしゃられました。「日本国天皇はこの私であります。
 戦争に関する一切の責任はこの私にあります
 私の命においてすべてが行なわれました限り、
 日本にはただ一人の戦犯もおりません
 絞首刑はもちろんのこと、
 いかなる極刑に処されても、
 いつでも応ずるだけの覚悟があります」

弱ったのは通訳でした。
その通り訳していいのか?
けれど陛下は続けられました。
                                  
「しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が住むに家なく、
 着るに衣なく、食べるに食なき姿において、
 まさに深憂に耐えんものがあります。
 温かき閣下のご配慮を持ちまして、
 国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

マッカーサーは驚きました。
世界中、どこの国の君主でも、自分が助かりたいがために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識なのです。
ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々として申されたのです。

マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを、机に置きました。
そして椅子から立ち上がりました。
そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と命じました。

マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ち、そこで直立不動の姿勢をとりました。
「天皇とはこのようなものでありましたか!
 天皇とはこのようなものでありましたか!」
彼は、二度、この言葉を繰り返したそうです。
そして、
「私も、日本人に生まれたかったです。
 陛下、ご不自由でございましょう。
 私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」と言いました。

陛下も、立ち上がられました。
そして涙を流しながら、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。
 この私に何の望みがありましょうか。
 重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と申されたのです。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開け、陛下をお見送りしました。
そして、あわてて階段を駆け上がると、これまでのGHQの方針を180度変更するあらたな命令を下しています。

その時の通訳の証言が残っています。