【国柱会】
国柱会
(こくちゅうかい)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって1914年に創設された法華宗系在家仏教団体で純正日蓮主義を奉じる宗教右派として知られる。神道的な要素を強く残しており、法華神道の団体としての色彩も強い。

「八紘一宇」
を最初に標榜したのは国柱会であり、のちに大東亜共栄圏のスローガンとして軍部がこれを利用する。満州侵略の中心を担った石原莞爾も、国柱会会員であったことから、過激な極右のイメージが定着。

メルヘンチックな賢治ファンにとっては、彼がこのような団体の会員であったことからは、目をそらしたいことでしょう。しかし「若気のいたり」で加入したのではなく、終生、国柱会の会員であり続け、家族の反対を押し切り、妹トシの遺骨を分骨、自身の墓も国柱会にあります。賢治と宗教の関係を知らずして賢治作品を理解することは不可能で、賢治の中核に田中智学がいたのです。

国柱会には中里介山、北原白秋、木村荘八、高山樗牛、武見太郎、近衛篤麿、石原莞爾などの文人から軍人、それから大川周明、北一輝、井上日召などのファシストまでが出入りしていた。
宮沢賢治も石原莞爾もともに大正9年(1920年)に国柱会に入信している。

【田中智学】
田中智学(1861~1939)は日本橋本石町うまれ、9歳で母、10歳で父をなくし、10歳のときに出家、宗教学校に入る。日蓮宗大教院の在学中に大病にかかり、そのとき、江戸川区の妙覚寺で静養していたとき文学に関心を持つ。

18歳には無難なアカデミズムに過ぎない仏門を否定し、僧籍返上。還俗し、宗門改革を目指して
1880年(明治13年)横浜で蓮華会を設立。4年後の1884年(明治17年)に活動拠点を東京へ移し立正安国会と改称、1914年(大正3年)には諸団体を統合して国柱会を結成した。

国柱会の根本の理念は、寺檀制度によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものである。
田中智学は既成宗教での勉学も修行も拒否、本当の修行は在家による現実世界での実践であるとし、約束された将来を捨て自らの使命である宗教改革を行動に移したのです。
田中智学は多芸多才で小説、戯曲の創作、設計の素養もあり、静岡県三保松原に五層楼閣の最勝閣を建設、国柱会館も建設している。

大正9年には「東京新都市論」を、明治20年には農工一体のコミューン「本時郷団」(法華村、日蓮村、日本村とも言う)の建設を提唱していた。
賢治の「羅須地人協会」の発想は、この「本時郷団」のユートピア構想とその軌を一にしているようである。

大正11年(1922年)に、「国性芸術」と呼んだ芸術を通しての教化活動を推進する「国性文芸会」という国柱会の付属機関を組織した。賢治に童話制作による布教を勧めた主旨に沿う。