【キリストの墓と竹内文書】より続き

青森県出身の画家烏谷幡山は故郷に観光資源がないので、友人の酒井勝軍に相談する。昭和9年4月酒井勝軍は広島県庄原の「葦嶽山」ピラミッドと認定。同年10月「ピラミッドなら私の故郷にもあります。」と鳥谷は酒井を戸来村に招待、「大石神山」を第二のピラミッドと認定させる。

その翌年には、天津教教祖竹内巨麿をこの村に招き、「キリストの墓」を発見。烏谷幡山の晩年は故郷を観光名所にしたく、全精力が注がれた。
http://www.takayamamuseum.jp/collection/collector/collector2/


その証拠はキリストの遺言状まである竹内文書だという。それでは日本で最も古いとされる記紀よりはるかに古いと称する竹内文書(昭和3年発表)と宝物を見てみましょう。



ヘブライ語の盆踊りまで伝承されていると主張しているのに、ヘブル文字を使わず2000年前にはなかったカタカナ、アルファベットがなぜか多用されている。イスキリ文字(五十一字)
$新時代のキリスト教

  キリストが板に彫刻したイスキリ文字、右が表、左が裏 右の立姿は本人の自画像
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科学的に年代測定しないのはなぜか?
   モーゼの御神骨石
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それではキリストの遺言状まである1928年(昭和3年)3月29日に公開された、『竹内文書』とはどのようなものでしょうか。

『古事記』と『日本書紀』の総称を記紀といいます。その記紀以前に神代文字で書かれた太古よりの記録があるという。古史古伝と呼ばれるものであり、代表的なものが、「竹内文書」です。竹内文書は、新宗教団体である天津教(皇祖皇太神宮、茨城県)の教典にも、位置づけられている。

内容には次のような記述がある。(Wiki等参考)
・ビッグバンさえ起こっていない紀元前3175億年に上古初代天皇が存在し、上古2代天皇の在位が320億年に達している
・イエス・キリストの遺言によるとゴルゴダの丘で処刑されたのは、弟のイスキリでキリストは十字架上で死なずに渡来、青森県の戸来村の十来塚が墓である。(1935年、昭和10年8月初に竹内巨麿が発見し、村長に書くようにいった)
・天皇が、来日したモーセに十戒を授け、モーセの墓が石川県の宝達志水町に存在している。
・釈迦、マホメットをはじめ老子、孔子、孟子、世界の大宗教教祖はすべて来日し、天皇に仕えた。
・皇祖皇太神宮が全世界の中心である。
・3000年以上前の上古2代天皇の時代に16人の弟妹たちが全世界に散らばり、彼らの名前は今も地名として残っている。(その中には「ヨハネスブルグ」「ボストン」「ニューヨーク」といった名前が見られるが、これらの都市が建設されたのはかなり新しい時代である。)
・約3000年前の不合朝64代の時代に皇子31名と皇女43名が巡幸し、長である万国巡知彦尊が知勇大力で外敵を制圧したのが「桃太郎」の起源だという。
・不合朝69代神足別豊鋤天皇の代にミヨイ、タミアラが陥没した。(酒井勝軍主宰の「陥没大陸ムー国」やアトランティス大陸を思わせる記述)。
・ヒヒイロカネについての記述があり、文書とともに伝えられてきたとされるヒヒイロカネ製鉄剣があるとしている。



竹内巨麿の人生には詐欺、文書偽造、不敬罪と警察沙汰が絶えなかった。ましてキリスト教知識のほとんどない竹内が単独で竹内文書と宝物を創作したとは考えにくい。前日記「キリストの墓と竹内文書」を読んでいただければ、だいたい察しはつくことでしょう。酒井勝軍、鳥谷幡山、竹内巨麿3人の合作と推測できます。三者三様の目的があり、酒井は陸軍上層部の洗脳とキリスト教布教、鳥谷は故郷の観光資源に、竹内は新興宗教の布教に竹内文書を利用したと推測できます。


酒井は世界公認の永遠のベストセラー聖書の権威とユダヤ民族の優秀性を横取りして、日本人こそが天皇を頂点とする本当のユダヤ人であると「反ユダヤ主義」「日ユ同祖論」を展開。超古代文明において天皇が世界を統治していたのだから、再び世界体制を天皇中心に再築すべくと大本教とともに陸軍上層部を洗脳する。

竹内文献のストーリーは酒井が、宝物と神代文字は鳥谷が中心となり創作に尽力したと推察します。このストーリー展開に詐欺師竹内は笑が止まらなかったことでしょう。宗教界で竹内文献に大きな影響を受け後世に多大な影響を与えた人物の代表格に、古神道系では出口鬼三郎、キリスト教では山根キク女史がいます。

熱心なキリスト教伝道者の山根キクが発行した著書
・光りは東方より(昭和12、1937、日本と世界社)
・天津祝詞ノ太祝詞事新解(昭和17、1942年、日本と世界社)
・キリストは日本で死んでいる(昭和35、1958年、平和世界社)
・日本に秘められてある世界の正史(昭和39、1964年、平和世界社)

同時代に「竹内文献」を研究していた山根キクの出版本に酒井勝軍の名前が無い理由は、酒井、山根、竹内巨麿の三人が竹内古文書の情報を共有していたことを、世に知られないか絶えず気にしていたからだとされている。 3人は皇祖皇太宮で度々密会を繰り返していたとされる。