海外メディアは日本に定着するのだろうか? WSジャーナル・小野由美子編集長 | (*´・ω)☆煮込んだおでんの具☆(ω・`*) 

海外メディアは日本に定着するのだろうか? WSジャーナル・小野由美子編集長

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WSJオフィスでの小野編集長
 2009年12月、米国のウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が日本に“上陸”した。有料サイト「WSJ日本版」がオープンしたが、果たして日本で成功を収めることができるのだろうか。初代編集長を務める小野由美子氏の人間像に迫った。【土肥義則】

【写真:ニューヨークに住んでいたころの小野由美子編集長】

――日本の新聞社の経営悪化が止まらない。収益の柱である購読料収入と広告収入が、急減しているからだ。そのため新聞各社はデジタル関連事業で“補おう”としているものの、成功事例はほとんどない。

 日本のメディアが収益悪化に苦しむ中、米国のウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)が日本に上陸した。2009年12月、有料サイト「WSJ日本版」(年額1万6560円)がオープン。WSJの有料サイトは米国や中国などで一定の成果を収めているが、果たして日本で定着するのだろうか。その重責を担っているのが、初代編集長に抜擢された小野由美子氏だ。WSJ日本版の初代編集長とはどのような人物なのだろうか。彼女の人間像に迫った。

 私が4歳のとき、父親の仕事の都合でニューヨークのクイーンズに住むことになりました。JALの飛行機には鶴のマークが描かれていて、ニューヨークの飛行場に着いたとき、飛行機から階段を歩いて降りたことを覚えています。また当時は1ドル=360円の時代だったので、米国にいた多くの日本人の生活は楽ではなかったと思います。お土産モノも、安物の「made in JAPAN」が多かった(笑)。

 いきなり幼稚園に放り込まれたのですが、全く英語が分かりませんでしたね。自分の思ったことがうまく伝えられない状態が、2年ほど続きました。これはちょっとしたトラウマになっているのでしょうか……いまでも英語がうまくしゃべれなかったことを思い出すことがあります。

 そして小学校に入学し、お弁当を持って行くのですが、そこでも食文化の違いを感じました。私は母親が作ってくれたおにぎりを持って行ったのですが、それを見た同級生は「うわー、黒い!」と驚いていました。彼らにすれば、おにぎりに巻いているのりを見ることが初めて。だから「黒い」と。あまりにも恥ずかしかったので、今度はサンドイッチを持っていくことに。

 そしてお昼の時間にそのサンドイッチを食べようとすると、今度は「くさーい」と言われてしまいました。多くの米国人はサンドイッチにハムをはさんでいるのですが、私が食べようとしていたサンドイッチには卵がはさんであった。日本だと卵サンドは当たり前のように食べますが、米国人は食べません。こうした食文化の違いを知ってから、私は毎日のようにハムサンドを食べていましたね(笑)。

●将来は英語を使った仕事

 日本に帰国したのは9歳のとき。小学校4年生のときでした。5年ぶりに日本に戻ってきたわけですが、たくさんのことに驚きましたね。例えばニューヨークの小学校では体育の授業がありません。また跳び箱や鉄棒といったモノがありませんでしたので、私は全くできませんでした。

 またニューヨークの小学校では時間割がなかったせいか、「日本の学校は窮屈だなー」とも感じましたね。しかし小学校6年生の秋、今度はロンドン郊外にあるサットンという街に引っ越すことに。当時の私は、学校の先生になることが夢。そのために中学受験を考えていて、受験勉強をしていました。しかしロンドンに行くことが決まり、「自分の人生が大きく変わってしまう」と感じていましたね。

 サットンという街はニューヨークと違って、のんびりとしていました。高いビルも少なく、マンションに住んでいる人も少なかった。電車も30分に1本ほどしか走っていません。私はサットンの街にある女子中学に通っていたのですが、そこは日本の学校に似ていましたね。制服があったり靴下の色が決まっていたり。もちろん時間割もあって。

 また週に1日ほど陸上ホッケーをして楽しんでいたのですが、中学3年生のときに再び引越しすることに。行き先はまたニューヨーク。当時の私はロンドンの高校に行こうと決めていたのですが、また父親の仕事の都合で「自分の人生が大きく変わってしまう」と感じていました。

 そしてニューヨーク郊外、ポートワシントンに住むことに。地域のある公立高校に通っていたのですが、「父親の仕事の都合で、また引越しするかもしれない」「どこの国の大学に行くのか、分からない」といった不安がありました。また「将来は英語を使った仕事をしたい」と漠然と考えていたので、とりあえず勉強だけはしていました。

 当時の性格はというと、どちらかというと大人しいタイプ。また小さいときから本を読むのが好きだったり、作文の授業でエッセーを書いたりするのが好きでした。

●翻訳がうまくできない

 日本で生まれニューヨーク、日本、英国、ニューヨークと転々としてきましたが、大学受験を前に日本へ戻ることに。そして筑波大学の国際関係学類の1期生として入学しました。中学生くらいまでは学校の先生になるのが夢でしたが、このころは英語を使った仕事をしたいという気持ちが強かったですね。なので自分の英語力を高めるために、通訳のアルバイトをしていました。

 また大学3年生のときには翻訳のバイトをしていたのですが、うまくできませんでした。このことは私の中で、とてもショックでしたね。当時の自分は日本語と英語を話すことができたので、「翻訳くらいできる」と軽く考えていました。しかし2つの言語ができるからといって、「翻訳の仕事はできない」ということを痛感しましたね。

 翻訳がうまくできないという“壁”を感じたので、通訳学校に通うことにしました。将来は通訳の仕事をしたいなあ、と考えていたのですが、ひとつ不安がありました。それは男女雇用機会均等法。私は男女雇用機会均等法の、いわば1期生。しかし多くの日本の企業は女性に何を求めているのか、どんな仕事を与えればいいのか――と、いろいろなことを模索している状況。手探り状態ともいえる日本の企業に就職しても、この先どうなるか分からないという不安がありましたね。

 そして大学4年生のときに、WSJでアルバイトをすることになりました。WSJの支局長や特派員は日本語がしゃべれなかったので、私は彼らの通訳をしていました。WSJのニュースルームに初めて行ったときのことは、いまでも鮮明に覚えていますね。彼らは「何でも知りたい」という好奇心の塊のような感じ。また、ものすごく勉強していた。初めてジャーナリズムの世界に触れて、「これが本当に仕事なの?」「とても面白そう」と強く感じましたね。

●ぶしつけな質問をする特派員

 アルバイトをしていて、印象に残っていることですか? そうですね……いろいろな仕事をしてきましたが、「なぜ日本人は大人でも漫画を読むのか?」といったテーマの記事をお手伝いしたことは思い出に残っていますね。バイオレンスものや露出の多い作品を批判するだけでなく、特派員と一緒に漫画家の家に話を聞きに行きました。するとその特派員は「なぜこのようなジャンルの作品を書いているのですか?」と、しゃーしゃーと聞くわけですよ(笑)。いきなりぶしつけな質問をするので、横にいた私はビックリしましたね。

 そして同行していた特派員が、このようなことを言ってきました。「1人で、漫画読者からコメントをとってきてくれ」と。いきなりだったので、ちょっとビックリしましたが、とりあえず漫画専門の書店に行ってみました。そして白い手袋をしながら立ち読みをしている人に「あなたはなぜ、このようなジャンルの漫画を読んでいるんですか?」と、しゃーしゃーと聞きました(笑)。いま振り返ってみると、とても失礼な聞き方なのですが、そのときの彼はとても好意的に答えてくれました。

 後で分かったことなのですが、その特派員は私のことを試していたんですね。WSJの記者としてやっていけるかどうかを。もしそのとき、ものおじしていたら記者になれなかったかもしれませんね。

●オノ・ヨーコさんに間違われて

――WSJで2年ほどアルバイトを続け、1989年、東京支局に正式に記者として採用される。

 私にはいわゆる“ジャーナリズム魂”といったものがありませんでした。もともと翻訳の仕事を希望していたくらいですから。ただWSJで働いていくうちに、人に話を聞くということ、そしてそれを表現するということに、とても興味を引かれていきました。

 記者になってからは、日本に関する記事を書きまくりましたね。そして東京支局で5年間働き、1994年に米国本社への異動が決まりました。東京支局で、米国人向けに情報を発信するという仕事はとても面白かったのですが、いまひとつ米国人がどういったことに興味を持っているかが分かりませんでした。せっかく米国の企業で働いているので、一度は本社に行ってみたいという思いは強かった。なので本社への異動は、本当にうれしかったですね。

 そしてニューヨークのマンハッタンに住み始めたのですが、いきなりちょっとしたトラブルに巻き込まれました。マンハッタンに1人で住むことを決めたとき、知人からこのようなことを言われました。「独身女性は電話帳に自分のフルネームを載せてはいけない。危険なので、ファーストネームはイニシャルのYにしないさい」と。で、私の場合は由美子なので、「Y.ONO」としました。

 しばらくすると家に電話がじゃんじゃんかかってくるようになりました。どうやら私のことを「オノ・ヨーコ」と勘違いしている人からかかってきたのです。電話帳には「Y.ONO」と電話番号。住所を載せていなかったので、オノ・ヨーコさんに間違われても仕方がなかった(笑)。でも日本から来たばかりの私にとって、ONOという名前は珍しくもない。まさかいたずら電話が、毎日のようにかかってくるとは思いもしませんでした。

 あまりにもひどかったので、電話帳から自分の名前を外そうかと思いました。でも面白いので、もう少し続けてみました。多くの人は留守番電話に自分の電話番号を残してくれていたので、昼間にオフィスから電話をかけなおしました。「私は小野由美子だけど、なぜオノ・ヨーコさんに電話をかけてようとしたのですか?」と聞いていったのです。すると、いろいろな人がいましたね。最も多かったのは、何かを売りつけようとしている人たち。このほかオノ・ヨーコさんのファンや単なるイタズラも多かったですね。

 さらにこんな人もいました。「いま映画のシナリオを書いていて、是非オノ・ヨーコさんに出演してほしい。あなたはこの映画に出演することで、リッチになれる」と。サギのニオイがプンプン漂っていましたね。

 また私はオノ・ヨーコさんのミュージカルを見に行き、休憩時間に彼女と会いました。そして私がオノ・ヨーコさんに間違われたことなどを伝え、彼女からそのことに関するコメントをもらいました。そして一連のことを記事にするのですが、掲載される前に電話帳から「Y.ONO」を外しました(笑)。

●読者に日本のことを分かってほしい

 ニューヨーク本社では食品や広告、小売業界などを担当しました。そして1998年に東京支局に戻ってきましたが、当時はまさに「失われた10年」の真っ只中。また「自己責任」という言葉が出てきて、雇用に関する記事もたくさん書きましたね。米国の成果主義をどのように導入すればいいのか、模索している日本の企業は多かった。

 “成果主義が当たり前”と思っている国の人に対し、日本が成果主義を始めようとすることを伝えることは難しかったですね。いかにも成果主義バンザイといった切り口ではなく、どうして日本では成果主義を受け入れるのが難しいのか――といった形で記事を書きました。

 毎日、取材に明け暮れる日々が続いていましたが、ある日上司からこのような話をいただきました。「東京副支局長をやってみないか?」と。もちろん記事を書くという仕事は面白かったのですが、「マネジメントの仕事を経験するのもいいかな」と思い、引き受けました。しかし東京副支局長の役職を引き受けたはずなのに、3カ月後に支局長が異動になり、私が「支局長代理」になってしまいました。36歳のときのことです。

 副支局長から支局長代理になったということは、私にとってとても大変なことでした。支局(スタッフ8人)をマネジメントしなければならなかったのですが、私にとっては未経験のことばかり。米国人記者の記事構成や英語を直したり、取材のアングルを一緒に考えなければいけないので、彼らから信頼を得るまで時間がかかりましたね。中にはスクープをとってくるのは得意でも、読みやすい分析記事を書くのが苦手な記者もいました。

 突然、支局長がいなくなった不安、支局長代理を務めることになった不安、この2つの不安は周囲にも影響していきました。みんなが不安の中で仕事をしている、といった感じでしたね。このピンチをどのようにして乗り越えればいいのか――。私はとにかくたくさんの人に相談しました。また多くの人に支えられながら、少しずつマネジメントの仕事ができるようになっていきました。

 また外資系は日本の企業と比べると、とにかくアピールしなければなりません。例えばトラブルが発生すると、周囲の人から指摘される前に「東京支局はこれをしています!」といった感じで、とにかくアピールしなければいけません。「これだけ仕事をしていれば、上司から評価されるだろう」といった姿勢では、なかなか理解されないんですよ。

 結局、支局長代理を9カ月間務めましたが、その間、東京支局長は来ませんでした。なので私の方から「自分が支局長をやります!」と言いました。振り返ってみると、自分ではかつてないほど、上司にアピールしましたね(笑)。「こんなに記事を出しました」「こんなにたくさんの仕事をしました」と。

 しかし担当者は「ちょっと、まだ早いよ」といった感じでした。最終的には支局長にさせていただきましたが、支局長になってみると、読者に日本のことを分かってほしいという気持ちが強くなりましたね。

●WSJ日本版がスタート

――2009年12月、WSJ日本版がスタートする。

 これまで米国を中心に世界中の読者に「日本を伝える」という仕事に携わってきました。そのためにいろいろな取材をしてきましたが、「英語なので読めない」といった声もたくさん聞いてきました。また「日本語はないのですか?」と、よく言われましたね。そのたびに私も「WSJが日本語で読めたらいいのになあ」と思っていました。

 そして2009年の春に、WSJ日本版編集長の辞令を受けました。上司からは「会社としてこのプロジェクトはとても重要だ。それをあなたにやってほしい」と言われ、とてもプレッシャーに感じましたね。そもそも日本のマーケットで成功するというのは、とても難しいこと。米国で成功した方法をそのまま日本に持ち込んで、失敗した外資系企業は多い。なので「日本ではこうなんですよ」と、上司を説得することが難しかったですね。例えば最初は米国版と同じように、ぎっしり文字を詰め込もうという動きがありました。しかしPC画面上に日本語がつまっていたらとても読みにくい。このことを伝えても「余白があるじゃないか」と、なかなか分かってもらえませんでした。こうした基本的なことを分かってもらう作業が、とても大変でしたね。

 編集部の朝はとても早く、早番の人は朝の6時に出社します。というのも米国の本紙に合わせて記事が出てくるので、日本時間でいうと早朝から昼までが、ピークの時間帯。1日に記事は200本ほどありますので、その中から日本の読者が興味を持ちそうな記事を選び、翻訳しています。もちろん午後からも記事は掲載しますが、午後は会議があったり、企画を練ったりすることが多いですね。

 この仕事の楽しさといえば、読者に新しいことを知ってもらうこと。また記事を読んでいただき、読者に反応してもらうこと。それは嬉しかったり、感動したり、悲しかったり、怒ったり……反応があれば、なんでも嬉しいですね。一方、この仕事をしていて悔しいことは、やはりほかのメディアに抜かれたときです。

 一番の財産ですか? そうですね……知識ですかね。いろんなことを知れば知るほど、楽しいじゃないですか。いま一番興味があるのは、米国の行方。日本は政府と企業の関係が密なので、「ジャパン・インク(日本株式会社)」と呼ばれてきました。しかしそれは日本だけではなく、いまの米国も同じようなもの。世界同時不況の影響を受け、多くの米国の巨大企業は政府からの支援を受けました。つまりお金を援助されたわけですが、こうしたことはこれまでの米国では考えられなかったこと。

 公的資金を受けた企業では、自分たちの社長すら選ぶことができません。政府の許可がないと、何も決められない状況なんですよ。日本で起きていたことが、いままさに米国でも起きているので、私たちは米国のことを「USAインク(米国株式会社)」と呼んでいます。これからの米国はどうなっていくのか――とても気になりますね。

――WSJ日本版は現在、翻訳記事のみを掲載しているが、次のステップではもっと日本版独自の記事を増やしていく予定だ。小野編集長に5年後は何をしていると思いますか? と聞いたところ「たぶんいまの仕事をしている」と答えた。5年後の2015年、メディアの勢力図は大きく変化していることだろう。ただ確信を持って言えることは「多くのメディアがデジタルへシフトしている」ことだ。



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