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「行」の読み方はなぜ3つもあるのか?漢字の音読みに隠された歴史

私たちが普段何気なく使っている漢字ですが、その「音読み」に注目したことはあるでしょうか。

 

たとえば、「行」という漢字一つをとっても、「行動(コウ)」「行事(ギョウ)」「行灯(アン)」というように、3種類もの異なる読み方が存在します。

 

なぜ、日本の漢字にはこれほどまでに複雑な読み方が混在しているのでしょうか。

 

 

今回ご紹介する中澤信幸著『漢字と音読みの謎を解く-呉音・漢音・唐音の奥深い世界』(中公新書)は、そんな素朴な疑問から出発し、日本の音韻史の深遠な世界へと読者を誘う一冊です。

 

本書は、中国語に由来する漢字の音読みが、どのような時代に、どのような経路で日本に伝来し、

 

そして定着していったのかを、音韻史の専門家が非常にわかりやすく紐解いています。

 

 

 

日本に伝わった3つの「音」:呉音・漢音・唐音の違い

日本の漢字の音読みは、大きく「呉音(ごおん)」「漢音(かんおん)」「唐音(とうおん)」の3つの層に分けられます。

 

これらは単に中国の異なる地域から伝わったというだけでなく、それぞれが伝来した時代背景や、担い手となった人々の目的と密接に関わっています。

 

 

本書の序章では、そもそも漢字の「読み」とは何か、表語文字である漢字がどのようにして日本で受容され、音読みと訓読みという独自の体系を生み出したのかが丁寧に解説されます。

 

中国語の多様な方言や、漢文訓読の起源にまで遡ることで、日本という国が漢字の音をいかにして自国の言葉の中に取り込んでいったのか、その見事な適応の歴史が浮かび上がってきます。

 

 

 

仏教経典とともに根付いた「呉音」

 

第一章では、最も古い層である「呉音」について詳しく語られます。

 

呉音は主に仏教経典とともに日本に伝来しました。

 

お経を読む際の音として、また仏教用語として日本社会に深く根付きました。

 

私たちが日常的に使う言葉の中にも、呉音に由来するものは数多く存在します。

 

 

興味深いのは、呉音が伝わった当時の中国南方の発音や、日本に定着する過程で生じた「和音」や「対馬音」といったバリエーションの存在です。

 

万葉仮名との関係や、仏典に記された「字音点」や「音義」といった資料を手がかりに、

 

古い時代の音がどのように発音されていたのかを解き明かしていく過程は、まるで歴史のミステリーを読んでいるかのような面白さがあります。

 

 

 

遣唐使がもたらしたエリートの音「漢音」

続く第二章の主役は「漢音」です。

 

漢音は、遣唐使たちが唐の都・長安から持ち帰った、当時の中国における「標準語」とも言える発音です。

 

日本政府は、国際社会(当時の東アジア)において通用する正しい中国語の音として、この漢音を積極的に奨励しました。

 

 

そのため、漢音は儒学の学習や公式な文書の読み方として広まり、知識人層の教養として定着していきました。

 

呉音が仏教という宗教的な文脈で広まったのに対し、漢音は国家の制度や学問と結びついて日本語に定着していったという対比が、本書を読むと非常によく理解できます。

 

 

 

禅宗とともに伝わり、日常に溶け込んだ「唐音」

第三章では、少し時代が下って宋・元・明の時代に伝来した「唐音」が取り上げられます。

 

唐音は、主に新しい仏教である禅宗とともに日本にやってきました。しかし、唐音の影響は宗教の世界にとどまりません。

 

 

「行灯(あんどん)」の「アン」や、「椅子(いす)」の「ス」など、実は私たちの身の回りには唐音に由来する言葉が意外なほど多くあふれています。

 

禅宗の僧侶たちと中国との活発な交流や、江戸時代における唐音学習の広がりなど、

 

中世から近世にかけてのダイナミックな文化交流の様子が、唐音というフィルターを通して鮮やかに描き出されています。

 

 

 

中国語音韻学と、江戸時代における音の整備

第四章では視点を少し変え、「中国語音韻学」という学問分野の基礎が解説されます。

 

反切(はんせつ)や韻書、韻図といった専門的な概念が登場しますが、これらは漢字の本来の発音(音価)を推定し、音読みの歴史を正確にたどるために不可欠なツールです。

 

 

そして第五章から終章にかけて、本書のクライマックスとも言える「日本の漢字音の整備」の歴史が語られます。

 

現在私たちが当たり前のように使っている「漢音」や「呉音」の区別は、実は自然発生的なものではなく、江戸時代の学者たち(文雄や本居宣長など)による緻密な研究と、人為的な整備の賜物でした。

 

さらに明治時代の漢和辞典の編纂を経て、現在の私たちが知る体系的な枠組みが「作られて」いったという事実は、多くの読者にとって驚きをもって受け止められるでしょう。

 

 

 

日本語の豊かさを再発見できる一冊

『漢字と音読みの謎を解く』は、単なる語学の解説書にとどまらず、音読みという切り口から日本の文化史、交流史を壮大なスケールで描き出した名著です。

 

 

一つの漢字に複数の読み方があることは、日本語を学ぶ外国人にとっては頭の痛い問題かもしれませんし、日本人自身にとってもややこしいと感じることがあります。

 

しかし本書を読めば、その「ややこしさ」こそが、日本人が外来の文化を柔軟に受け入れ、

 

自らの血肉としてきた歴史の証であり、日本語の途方もない豊かさの源泉であることが深く理解できるはずです。

 

 

言葉の歴史や漢字の世界に少しでも興味がある方にとって、知的好奇心を大いに刺激してくれる至福の読書体験となることでしょう。

 

現在の漢字体系ができあがった歴史的背景を知るために、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。