僕は、

芦原妃名子先生が自ら命を絶つに至った主たる原因は

相沢友子脚本家だと思っている。

 

これは決して「誹謗中傷」ではない。

 

今から理由を説明するから、まずは落ち着いて。

 

 

 

 

まず、「脚本」「脚色」の違いから説明しよう。

 

「脚本」とは、ハリウッドでも日本でも、

脚本家オリジナルで執筆された作品を指す。

 

「脚色」とは、ハリウッドでも日本でも、

原作を脚本家が脚本の形に起こしたものを指す。

 

だから米アカデミー賞では

脚本家がゼロから素晴らしい話を作り上げたことを賞賛する「脚本賞」

原作をリスペクトし素晴らしい脚本にしたことを賞賛する「脚色賞」

があるのだ。

 

 

んでもって、面倒くさいのが

日本では「脚本」「脚色」も書き上がった原稿をどちらも

“脚本”と呼ぶことだ。

だから勘違いが起こる。

 

「脚色」した脚本家は、書いたものが“脚本”などと呼ばれると

あたかも自分が生み出した「脚本」(=作品)のように勘違いしてしまう。

 

すると

「自分は原作者より偉い」

と傲り高ぶってしまう輩が現れてしまうのだ。

 

 

だが原作がある場合、誰が何と言おうと、

その書かれた“脚本”は今も昔も「脚色」である。

 

だから相沢友子脚本家

『セクシー田中さん』においては脚本家ではなく

他人の著作物を利用して金を稼いでいた

ただの『脚色屋』ということだ。

 

 

※脚色屋の相沢友子脚本家

 

 

 

実は、昔はその辺はとてもきちんとしていて、

映画でもテレビドラマでも原作がある場合は

 原作:☆☆竜之介

 脚色:○○太郎

てな感じでちゃんと「脚色」とクレジットされていた。

そこには原作に対する明確な敬意が存在した。

 

それがいつからか、

原作を基にしていても「脚本」とクレジットされるようになり、

挙句の果て、原作を好き勝手に改変し

さも脚本家オリジナルの作品のようにしてしまってもOK

みたいな風潮になってしまった。

構成やセリフの改変、キャラクターの設定の改変は言うに及ばず、

テーマの改変や、キャラクターの性別まで変えてしまうことも平気でする、

まさに「原作レイプ」が今も平然と横行しているのだ。

 

 

それもこれも

脚本家とプロデューサーが

原作への敬意を一切持たない

からだ。

 

脚本家は自身のクソくだらない粗末な作家性に拘り、

プロデューサーは金儲け(視聴率)のためなら何でもあり、

と言う考え方で、

原作はそのための素材でしかないと思っている

んじゃなかろうかと言うことは想像に難くない。

 

 

その勘違いが積み重なっていくと

やがて無能な脚色屋が原作を冒涜しだし、

揚げ句の果てに

「結末がツマラナイのは素人の原作者が脚本を書いたからだ」

という思いが滲み出ている文章を

SNSに平気で書き込んでしまうようになるのだ。

 

 

『セクシー田中さん』においては

相沢友子脚本家「脚色」しただけで

断じてオリジナル「脚本」を書いたわけではない。

 

ましてや連載中で結末が決まっていない話であれば

原作者が用意した結末以外に

ドラマの結末の正解はない。

絶対にだ!

 

『脚色屋』ごときが

「私の方が面白い結末を書いたはずだ」

などと思うことすら烏滸がましいことなのだ。

 

 

 

 

原作がある場合、脚本家は、

・原作のテーマを理解し、

・登場人物の設定を理解し、

・原作の世界観を大切に、

撮影台本に向けた「脚色」を行わなくてはならない。

 

そして、そこには絶対に

原作と原作者への敬意がなくてはならない。

 

 

だが往々にして無能な脚色屋

原作が持つテーマや世界観が理解できず

自分の凡庸な想像の世界に原作を引きずり下ろし

原作を破壊し自分の価値観で再構築しようとする。

 

例えば

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毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました。
・漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう。
・個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた
別人のようなキャラクターに変更される。
・「性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさ・小西と進吾の長い対話」等、
私が漫画「セクシー田中さん」という作品の核として大切に描いたシーンは、
大幅にカットや削除され、まともに描かれておらず、その理由を伺っても、
納得のいくお返事はいただけない。

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というような形になって現れたりするのだ。

 

 

「作家の尊厳」が聞いてあきれる。

状況からすると相沢友子脚本家は作家どころか

「脚色」する能力すらない

と疑わざるを得ない。

 

残念なことに今の日本には

原作を破壊して書いた“脚本”を自分の「作品」と思い込んでしまう

哀れな『脚色屋』が少なからず存在するのだ。

 

 

 

ドラマ『セクシー田中さん』では、

相沢友子脚本家

せめて謙虚に「脚色」とクレジットされるべきだった。

 

言うまでもなく

『セクシー田中さん』は、

相沢友子脚本家「脚本」作品ではないからだ。

 

誰が「脚色」しようが

『セクシー田中さん』は、

芦原妃名子先生の作品なのだ

 


原作者の代わりは絶対に存在しない。

芦原妃名子先生が亡くなられた今、

『セクシー田中さん』の続きは永久に読む事が出来ない。

 

だが、『脚色屋』の代わりなど五万といる。

現に相沢友子脚本家が外れた9話10話も

普通に完成してオンエアされているではないか。

所詮『脚色屋』などその程度のものなのだ。

 

相沢友子脚本家

芦原妃名子先生の原作を「脚色」する仕事をもらっただけの

『脚色屋』だと言うことを自覚するべきだったのだ。

 

 

 

 

相沢友子脚本家ごときに自分の作品のように振る舞われて

芦原妃名子先生の悔しさは相当なものだったと思う。

 

そうやって散々原作をレイプしまくった挙げ句

とどめといわんばかりに原作者を愚弄する書き込みをして

芦原妃名子先生の名誉と尊厳を傷つけたことが

この騒動の全ての発端であることは紛れもない事実だ。

 

これだけは断言できる。

うぬ惚れて勘違いした相沢友子脚本家があの書き込みさえしなければ

芦原妃名子先生は亡くならずに済んだはずである。

 

本当に本当に悔しい。

 

つづく  

 

 

 

 

 

ちなみに「誹謗中傷」とは

「根拠のない悪口を言いふらして、他人を傷つけること」

 

このブログは、

客観的事実に基づいて考察し批判したものです。

「誹謗中傷」ではありません。

 

むしろ、「誹謗中傷」していたのは

相沢友子脚本家とその取り巻きの方です。

 

日テレ相沢友子脚本家

「誹謗中傷」と言う便利な言葉で自分達を批判する者を「誹謗中傷」

説明責任から逃げるのはやめて下さい。

 

もしこのブログが「誹謗中傷」だと言うのであれば

第三者委員会を立ち上げ真相を究明し、

きちんと「誹謗中傷」であると証明してください。

 

特に日テレはマスコミのくせに一般人に対し

「誹謗中傷」とレッテルを張り、訴訟をちらつかせて、

批判を封じ込めようとするその姿勢は

悪質な言論弾圧に他なりません。

 

マスコミなら、

一般人から批判が起きないよう真実を調べ

何故この様なことになったのか

きちんと検証して説明する義務があるはずです。

 

それすら放棄するなら

今すぐ放送免許を返上すべきです。