第20回つのぶえ創作童話 入選
ペロの鈴の音
十年前の春の日、僕の家に、新しい家族がやって来た。生まれたばかりの、オスの柴犬だった。子犬のころから、たいへんな食いしん坊だったみたいだ。出されたエサをペロリと食べてしまうため、子犬は「ペロ」と名付けられた。
このペロという名前。今でこそしっくりくるけど、昔はあまり好きじゃなかった。レオとかラッキーといった、もっとかっこいい名前がよかった。
名付け親のお母さんに、僕は尋ねたことがある。
「ほかにいい名前はなかったの?ペロなんてかっこ悪いよ」
するとお母さんは、不機嫌な顔で僕にこう言った。
「呼びやすくていい名前じゃないの。不満があるなら、涼太が考えてあげればよかったのよ」
そんな無茶な。ペロがうちに来たころ、僕はまだ赤ん坊だったのだ。名前なんて考えられるはずがない。だけど、お母さんに口答えをする勇気もない。僕はこの時、ぐっとこらえて言葉を飲みこんだ。
名前のいい悪いはともかく、この十年間、ペロが僕たちの大切な家族だったことは確かだ。
公園でボールを投げると、他人のボールをくわえてくるペロ。
犬小屋に置いたエサを、野良猫に食べられてしまうペロ。
「お手」と「おかわり」を、いつまでたっても覚えられないペロ。
とにかくドジな犬だけど、兄弟のいない僕にとっては、かわいい弟のような存在だった。
今年の春、小学五年生になった僕は、ペロの夕方の散歩を担当することになった。歩いて十分ほどの小さな公園が、僕たちのお決まりのコースだった。
「おいで、ペロ。散歩に行こう」
日が傾くころ、僕は決まって、玄関からペロを散歩に誘う。ペロは首輪の鈴を鳴らして、僕のまわりをクルクルとまわる。それがふたりの決まりごとだった。そんな毎日が、いつまでもつづくものだと思っていた。
ペロが突然、歩けなくなるまでは。
「椎間板ヘルニアだね。この年齢の犬には多い病気なんだ」
獣医の先生から告げられ、僕は頭がまっ白になった。あんなに元気だったペロが病気になるなんて、とても信じられなかった。
そして、次の言葉が僕に追い打ちをかけた。
「残念だけど、もう歩けないだろう」
それ以来、ペロは一日の多くを、リビングに置かれたベッドの上で過ごすようになった。毎日鳴りつづけていた首輪の鈴も、今では響くことはなくなった。人と犬とでは、流れる時間の速さが違う。ともに同じ年月を歩いてきたはずなのに、僕は成長し、ペロはおじいさんになった。その事実が、僕には悲しかった。
「ペロ、嘘だよね。もう歩けないだなんて…」
横たわるペロの背中を、僕は撫でてあげることしかできなかった。ペロは黒く濡れた瞳で、僕の横顔を見上げていた。
「涼太、元気出しなさい。暗い顔するから、ペロが心配してるじゃないの」
見かねたお母さんが、僕に声をかけた。日ごろ僕には厳しいお母さんも、ペロには無条件に優しい。僕が学校に行っているあいだ、ペロの世話はお母さんがみてくれている。車の運転ができるため、動物病院への送り迎えも、お母さんが引き受けてくれた。
「当たり前でしょ。ペロはわたしたちの家族なんだから」
これが、お母さんの口ぐせだ。照れくさくて口にはしないけど、僕はそのことをとても感謝していた。
問題は、お父さんの方だ。
ペロがつらい思いをしているのに、話しかけることも、なでてあげることもしない。いたわる気持ちが感じられないのだ。
もともと僕は、お父さんのことがずっと苦手だった。
小さな町工場に勤めるお父さんは、職人気質のためか、かなり頑固で気難しい性格だ。口数が少ないうえ、ずっと眉間にしわを寄せているので、話しかける時はいつも緊張する。だからお父さんに用事がある時は、お母さんに伝言を頼むようにしている。そのたびに「お父さんに直接言いなさい」と怒られるけど、あの眉間のしわを見ると、なにも言えなくなってしまう。僕にとっては、近寄りがたくてけむたい存在なのだ。
ところが、ペロは違った。お父さんをとても慕っていた。お父さんが仕事から帰ると、しっぽを振って玄関まで出迎えに行った。あんな嬉しそうな素ぶり、ほかの誰にも見せたことがない。僕が思わず、やきもちを焼いてしまうほどだった。
そんなペロに、お父さんは無関心を決めこんでいる。「ああ見えて、優しいところもあるのよ」とお母さんは言うけど、本当だろうか。
僕にはお父さんが、冷たい人に思えてならなかった。
ペロが歩けなくなってひと月が過ぎた、ある夜のことだった。僕は夕食をすませたあと、ペロと並んでリビングのテレビを見ていた。いつもなら、自分の部屋で宿題をしている時間だった。リビングでくつろいでいられるのは、お父さんが仕事から帰っていないためだ。
台所で洗いものを終えたお母さんが、壁の時計を見上げてため息をついた。
「お父さん、遅いわね…」
時計の針は、すでに九時をまわっている。今日だけじゃない。最近のお父さんは、仕事の帰りがとても遅い。景気がよくないせいか、以前は夕方過ぎには帰って来たのに。
そんなことを考えていた時だった。ペロがふいに頭を持ち上げ、耳をピンと立てた。玄関のドアが開いて、お父さんが帰宅したのが見えた。
「お帰りなさい」
小声であいさつをして、僕は自分の部屋へ向かおうとした。ところが、お父さんの行動を見て足が止まった。リビングに入るなり、ペロのからだをおもむろに抱き上げ、玄関へと歩き出したのだ。僕はわけが分からず、あわててあとを追った。
「ペロをどうするの?お父さん」
「いつまでも、寝かせておくわけにいかんだろ」
その言葉を聞いて、僕は心が凍りついた。恐ろしい予感が、からだのなかを貫いていった。
お父さんは、ペロを見捨てるつもりなんだ。きっとそうに違いない。僕は声を震わせながら、お父さんにつめよった。
「ちょっと待ってよ、僕がちゃんと面倒をみるから…」
お父さんはなにも答えず、玄関を抜け、薄暗い庭先へとペロをつれ出した。そこにはふたつの車輪とベルトがついた、小さな荷車のようなものが置かれていた。
「サイズが合えばいいんだが」
そう言ってお父さんが、ペロの後ろ足を荷台に乗せ、背中にベルトを巻いていった。ふたつの車輪が、動かない後ろ足の代わりになっている。それがペロの車いすであることに、僕はようやく気づいた。
「さあ、ペロ。歩いてみろ」
お父さんにうながされ、ペロはゆっくりと前足をふみ出した。一歩、また一歩と、慎重に地面をとらえて歩いていく。やがて車輪が動いて車いすが進み出すと、ペロは目を輝かせて、庭のなかを駆けまわった。ひさしぶりに聞く鈴の音が、月明かりの庭にこだましている。僕はひざをかがめて、駆け寄るペロのからだを抱きしめた。
「仕事のあと、工場を借りてつくったんだ。慣れない代物だったんで、一ヶ月もかかっちまったがな」
お父さんが並んで座って、ペロの頭をごしごし撫でた。庭に様子を見に来たお母さんが、僕の肩にそっと手を添えた。
「立派な車いすじゃない。よかったわね、涼太。ペロが歩けるようになって」
「うん…」
僕はうつむいたまま、顔を上げることができなかった。恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。お父さんは、決して冷たかったわけじゃない。この一ヶ月、僕やお母さんと同じように、ペロのことで心を痛めていたんだ。人の優しさは言葉や態度だけではないことを、僕ははじめて知った気がした。
「これでまた、散歩に行けるな」
ペロの頭を撫でながら、お父さんが小さくつぶやいた。ペロだけじゃなく、僕にも言ってくれたように思えた。
「ありがとう、お父さん…」
僕が声を絞り出すと、お父さんはぶっきらぼうに「おう」とだけ答えた。眉間には、あいかわらず深いしわが刻まれている。
そんなお父さんの横顔に、僕は「ごめんなさい」と、心のなかでつけ足した。
