承前)ケルンでのマーラー九番、なによりも会場の音響が大きかった。舞台での楽器のウォーミングアップでそれは分かった。形状通りに扇形の背後の壁が下手奥のコントラバスを跳ね返す。それに影響を受けるかのようにオーボエなどが輪郭が呆けて仕舞う。反面その間に座る上段のホルンはよく通った。舞台上でも癖があるのだろう。前者の点は本拠地のベルリンよりも長所であるが、後者の発散と暈けは短所でしかない。概ね倍音成分は伸びるようで、ドーム構造が活きて、その容積も十分あるから飽和しないのだろう。

弦はそれで倍音成分が綺麗に広がるが、伸びて滲むようなことはなく短い。この辺りの残響特性は絶妙だと感じられた。この会場の最大の利点かもしれない。同じように扇型であり、カラヤンが大阪の旧フェスティヴァルホールをイメージしたというザルツブルク大劇場のオペラ向きに残響をつけた感じである。

それによって一楽章の冒頭からでもあるが、四楽章においても弓運びが綺麗に聴こえて同時に客席との距離が半径内なので視角と違わない。それによって舞台上の跳ね返りを反映してか、とても丁寧な弦合奏が初めて楽しめた。然しそれは最終的に九月のルツェルン以降で最終的な出来上がりとなる。まだまだ出来るとしか言いようがない。ケルンのそれも美質には違いないのだが、KKLの方がその点でも更に優れているだけでなく、なによりも楽器間のバランスが素晴らしい。その最たるものがあれだけアムステルダムでは第一ヴァイオリンの反対側に座って対抗する形で書かれている楽曲がよく響いていたのだが、ケルンでは楽器が反対側に向いている分半分近い音量でしか聴こえず、音楽的な形成が掛け合いとなっていなかった。秋に期待されるところである。

上述したように所謂下吹きとされる主席ではないホルンが朗々と響く一方、木管などは可也のパワーでないとバランスし難そうであったり、反面ベルリンであるならば跳ね返らないコントラファゴットやクラリネットなどがコントラバスに対抗して響いていた。その分全奏での響きは悪くなかった。勿論演奏の質が上がってきている事でもある。

そのような音響の中での一楽章でも何度かの強奏でもダイナミックスがコントロールされる様になっていて、ショルティ指揮シカゴ交響楽団におけるそれを思い起こした。如何に楽譜が正しく音化されるようになってきているかでしかない。音楽監督としての経験から厳密に認識しているマーラーの作品であるからたとえ初演後の楽譜校訂が叶わなかったとしても基本的概念の構想には疎かなところはない。修正されるべきは対位法的な若しくは音律旋律的な受け渡しでのシステム間のバランスであって、全奏とはまた異なる面でもある。まだまだ会場がよくなることで変わって来るのは間違いがない。反面木管などの定位感がなくて印象が悪いことが冒頭からの繋がりがより難しくなって来ていた。

その総奏のあり方は、アムステルダムでも本質として言及したのだが、まさしくそこでの音運びがラッヘンマンも語る冒頭の三音の断片が楽器法も含めてとことん扱われることをして弁証法と、その後にアントン・ヴェーベルンへと流れているとしている。ケルンでのプログラムには、二度三度での変容が各々の声部に展開して、それが次には合わさることで音響の中での激流となるとして、「優しく歌い」と「怒りを以て」、「熱情的に」若しくは「影の様に」、「あまりに重々しい葬送の様に」の音楽指示と同意義となる。(続く)



参照:
ドーム横フィルハーモニー 2025-05-23 | 雑感
マーラー九番の真髄 2025-05-11 | 音