
(承前)演出に関しては軒並み好評である。地面が上がってマングローブ状の見えない世界を使うところがやはり効果をあげているのだろう。地上地下天空の次元をそのコンセプトと語っていて、なるほどそれは音楽的にも上下感にそれらを繋ぐ地平線などがイメージ可能となる。
殆どの主要な批評は出揃った。重要な地元のフランクフルターアルゲマイネ紙を除いては明らかに指揮者への注目度は増していて、通常の批評で済ましているものはなくなった。それは、知名度が増して、特にフランクフルトではブルーレイ化された「マスケラーダ」の成功のみならず、やはり辞める支配人の一推しがあるように感じる。プレス向けの情報もそれ程量は変わらない筈であるが、エンゲル本人が出しているヴィデオなど音楽的な言及もそこにある。そこでは一部ではポンティチェロやコルレニョ等、コントラバスを弓で叩きつけるところは弓を保護する為にも他の物を代用して音量を確保したりと試してみたと語っていて、二部では20世紀に存在する木管楽器の組み合わせ、三部で金管を加えた調音されたゴングとティムパニーの一人の奏者での叩き分けと詳しく語っている。
こうしたレクチューアこそが玄人の書き手に、その多くは新しい音楽に詳しくない音楽ジャーナリストでもあるのだが、材料を分かりやすく提供する事で音楽劇場指揮者の仕事の質を教えることになっている。先ずはなによりも素人の聴衆よりも玄人の書き手を教育しなければいけないということでもある。
それによって今回はエンゲルのした仕事を形作ったとかの表現が見られて、SWRでは「私たちにそのまま関すること、それが大音楽劇場だ。」と結んでいる。放送局が三部の音響も使用して紹介しているので、少なくともマイクは入れていたという事だろう。これが意外に上手に録られていて、その重なりの深みは多層的に取られ、私の席からでは十分なミキシングがなされていなかった。その辺りも個人的な批判点だったのだが、そうした批判は一つも見つからない。
新しい音楽を特に初演などを印象深く鳴らすことに長けた指揮者が幾らでもいる。然しギネスになるほどの数を熟しているエンゲルの指揮では、特にこうした音楽劇場作品に期待するものはそれだけでは終わらない。今回も第三演なので、ここでこの制作が成功するかどうかでこの作品の生命が殆ど定まる。それどころかこの作曲家の歴史的な評価に大きく関わる。だからこそエンゲルはこの作曲家を称してモダーンの古典の作曲家としていて、その殿にいるような芸術家だと思っているのだろう。
それゆえに、一部での低弦の響きが決して甘く流れないことを、正しく初演の録音と比較していて、二部の木管合奏の組み合わせの妙が書き込まれているものだという信頼感をバランスを取りながらニュアンス豊かにと評しているのだ。三部の編成が膨らんでいく部分においてもその明瞭さと透明感を失わないとしているので、私の厳しい視線からすれば大分甘い批評である。
当然のことながらこちらは比較するものがペトレンコ指揮のそれであるので、決して二三流の尺度では一切考えない。同時に、これからまだ六夜上演されるその中での進化に大きな期待を寄せるのである。さもなければ前回賞を別け合ったペトレンコを蹴落としての単独授賞とはならないからである。(続く)
参照:
Glühend wie ein schwarzer Diamant: „L'invisible“ von Aribert Reimann, Bernd Künzig, SWR2 vom 31.3.2025
昔の若者たちの日曜日 2025-04-02 | 生活
そこにいるのは「死」 2025-03-26 | 音