玄人筋がマーラー作曲第七交響曲に閉口している。幾つかの問題点は考えられるが、所謂こうした大きなメディアに何かを書いたり発言したりしている多くのジャーナリストは、従来のメインストリームで仕事をしている物書きばかりで、芸術的先端で何かに触れている人たちではない。だから、各々の経験や知識で纏まった印象を持てないとして苦情している。

改めてベルリンの初日の録音を聴いてみた。傷はあってもやはり画期的な演奏になっている。ロンドンでペトレンコ指揮ミュンヘンの座付き楽団での同曲を演奏した節、ベルリナーフィルハーモニカーは調印していたペトレンコと早くこうした関係になりたいと語っていた。その成果は改めてとなるが、細かなところをもう少し磨いていくとより全体像が表れてくるかどうか。

兎に角、フランクフルターアルゲマイネ紙も、翌日にベルリンの地元の交響楽団を指揮者エッシェンバッハが、泣き笑いでお客さんが求めていた音楽をやってくれていたのとは対照的に、ペトレンコ指揮のフィルハーモニカーは余りにもりっぱなマーラーを演奏して、最早この曲は博物館的な価値しかないのではとしている。

言葉を変えれば従来のマーラー像をとなるのだが、それが商業的な音楽で同時にエンタティメントを示すことを含意している。当然の事ながら先端の芸術は広範な聴衆には理解されない。それをしてマーラーのそうした新しい美への追及で当時の市民を震撼させたのだが、最早それが蔵入りするのではないかとしている。

今回のプログラムの意図は、まさしく就任以来同時代のリヒャルト・シュトラウスやベートーヴェンなど所謂独墺の核レパートリーとされるものにこのマーラーの七番を置き据えるというものだ。最近は屡語られているように、嘗てのベルリンの新興の交響楽団にとっては後期ロマン派の終結とも思われるマーラーの交響曲はその殿に置かれてもよかったのだが、そのようにならなかった。

戦前の歴史を転換するのはナチが政権をとってからで、それまではドイツ音楽の核とされていたメンデルスゾーンなどが排除されて、当然の事ながらマーラーの伝統も途絶えて仕舞っていたらしい。しかしそのような外的な要因を排除してもこの七番が主要レパートリーとしてフィルハーモニカーによって演奏されていたとは思われない。

シーズン後半にはシェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」がベートーヴェンの八番交響曲と共にプログラムに組まれているのだが、これは恐らくその次のシーズンへとも繋がっていくのだろう。フルトヴェングラー指揮で旧フィルハーモニーで初演された曲であり、この七番交響曲の次に核となっていくに違いない。

先ずは、週明けのフランクフルトでの壮行演奏会から始まる米国ツアーでそれを認識させることが出来るのかどうか、そこが注目されているのでもある。一体シーズン開催演奏会でベルリンで演奏されたその反響と批評の数々を経て、これから起こる状況が、今後どのように認識されて、正しく位置づけされて行くのだろうかと訝しく思うところなのである。
ルツェルン音楽祭での演奏後の歓声、LUCERNE FESTIVAL, Kirill Petrenko, Berliner Philharmoniker, Mahler Siebte



参照:
夜の歌のレムブラント 2022-10-22 | 音
米国お披露目ツアーへの弾み 2022-09-04 | 文化一般