承前)演出のサイモン・ストーンはこの作品をデビュー当時から上演しようとしていた。理由は、職業人としての最初に自らの好きな作曲家を並べるとそこに映画「2001年宇宙への旅」やサウンドトラック「ジエクソシスト」などのホラーなどで馴染みあったペンデレツキの作曲として挙がってきたという。そして長年上演構想を劇場に持ち掛けて来ていたようだが、容易には為らず、すると同じようにこの作品を愛している音楽監督ユロウスキーとの企画にぶち当たったという。これが今回の制作の成功の源だった。

女性の視線から男性チームの演出への批評が出ている。元来の作品自体にはそのミソジニー視線が仕込まれているということだろうが、劇中で扱われるロシアの女性運動家などの扱いも批判となっている。更に読み替えという言葉が使われていて、我々はまたかと思う。1960年時代に1950年代の台本をもとに1634年のユグノー派の動きとその魔女狩りを意図して、一体私達は劇場で何を体験するのだろう?

いつものニフラー氏が「ブルートハウス」初日に続いてフランクフルターアルゲマイネ新聞に書いている。流石に私たちの仲間である。ストーンの演出に関しては、とても即物的で脚本に近くとその通りである。それに留まらず修道女たちの破廉恥行為も拷問場面もスキャンダル化せずに十分な効果が得られたのは作品自体の効力だとしていることである。

同時に、火炙りとなる場面の後奏も慰みも救済も無くと、最もこの作品を評価する場合の鍵を最初に示している。逆にこのことはペンデレツキの音楽における表現内容を予め定めていることになり、全てに大満足な舞台上の音を支える奈落の仕事としてその素晴らしさに言及している。

雑音成分の色合いとその音楽的な面白さに当時の前衛として、打楽器への恐れも今は昔でありとなるのだが、恐らくそこが書き手の視座がはっきりするところだろう。つまり、ユロウスキー指揮の座付き楽団は、その奏法や音色への拘りであまり比較できない境地に達していた。どれだけサウンドデザイン的にも合わせてきたことか。ユロウスキーはベルリンでも現代音楽楽団などを振って成功しているのだが、その意味からは今回のチューニングは嘗てビロードの響きと絶賛されたようにヘンデルを指揮したボルトンの古楽の音に匹敵するものであった。

テレミンまで入る電子音も取り入れられていて、組み合わせの可能性が増えているのだが、こうした音を実際に鳴らすには余程助手を使ってサウンドチェックをしていかないと駄目だった筈だ。なるほど今回は人気女性アシスタントではなく男性二人の名前が入っていて、「ブルートハウス」上演の時に音楽監督が話していた若い人たちに違いない。

これだけで音楽的には成功しているのだが、それだけでは最初の仮定であるこの作品のレパートリー化の価値への疑問には答えていない。(続く)



参照:
焼き魚の骨を箸で解す 2019-06-22 | 音
乾くまでは一日掛かる 2022-06-09 | ワイン