承前)芸術が高尚でなければいけないとは言わない。しかし演出家のピーター・セラーズが語っていたように少しづつでもかみ砕かなければ分からない難しいところがなければいけないとするのには賛意する。端的に向上心とか「今日よりも明日が少しでも」とする啓蒙思想的な発展がそこに存在するということである。なにか得るものがあるかどうか、何回繰り返しても発見があるかどうかで、使い古されるエンターティメントの消費と芸術との差がそこにある。新たな発見もないような世界には希望もない。

失念する前に、「ジュディッタ」で挿入された曲の中で印象に残ったシェーンベルク「幸福の手」を調べると、それは第二景だった。挿入されるのを知っていたら楽譜を調べておいたのにと残念に思った。そして今更ながら、この曲が奥さんのマティルデの1908年の浮気と刃傷沙汰に絡んでいるとは知らなかった。相手の画家は、奥さんがシェーンベルクの許に戻って直ぐに、自殺している。

流石に芸術家の人生であって、チャイコフスキーのだけではない。「浄夜」の詩とかの程度でもない。シェーンベルクも若かったのかもしれないが、とりわけ熱いことになっている。しかしその音響がとんでもなくクールなのだ。

LPで所有していて、CD選集にもついていたのでブーレーズ指揮でニムスゲルンが歌っていたのは耳にしていた。しかしそれ以上には詳しいト書きで情景や背景までを想像したこともなかった。数少ない音源でもまともに聴いていないということで、特にこうした楽譜を買うととりわけ高価だったような音楽は余程注目していなければ流している程度でしかないということになる。因みに同様のモノドラマ「期待」の方はジェシー・ノーマンの舞台を観ているので脳裏に焼き付いている。

そのようなことで、今回も放送で流れるので改めて鑑賞したい。声の使い方も見事だと思ったのはそれと管弦楽の絡みが絶妙であったことにあると思う。改めてブーレーズ指揮BBC交響楽団演奏のそれを聴くと、まるでト書きを説明するかのような具象的な音が鳴っていて笑ってしまう。その点、エンゲル指揮の座付き楽団のそれが、明らかに抽象的な音色が活かしつつ、劇的な演奏をしていたのを思い起こす。

ティテュス・エンゲルの指揮は、そのコムテムポラリー音楽や古楽での経験を踏まえての引き出しの多さがあるのだが ― 決して初演魔に終わらずに ―、嘗てからの長所以外に気が付くこともある。フランクフルトでの二種類の演目三晩を聴いても音楽劇場空間の作り方が上手い。矢張り散々に面倒な新作などを指揮してきての経験から、その聴衆との仲介であると同時に反応を観る力がついているのだろうと思う。

上の挿入やその繋方も見事な腕前であると同時に作品をとても忠実に紹介する使命感も強い。そうした配慮を超えることなく、そのアッチェランドの掛け方などもペトレンコの一瞬即発の急加速とは異なって重量級のICEの加速感に似ていて、こちらの腰が引けるときがある。そして何よりもいいのはゆったり感で ― 独語的イントネーション感を伴う ― 、あれはペトレンコが如何に天才指揮者であっても出来ない。同時に瞬発力が高く、回りだすと物凄い迫力がある。ミュンヘンでも音が大き過ぎると書かれたが、他紙には演出上から敢えて声を落としていたのだと「反論」が載っていた。

以前から言及していたように、若い時から声に合わせるのは特別に上手かった。そして悠々とした指揮は印象にあったのだが、こうしてメインストリームの楽曲においてこのような威力を発揮するとは想像もつかなかったのである。音楽スタイルとしてはあくまでもコンサート向きなので、放送交響楽団だけでなくて一流の交響楽団を独自のプログラムで指揮して欲しいと思っている。バーゼルの現代音楽管弦楽団に決まったということは、まだまだ通常の管弦楽団のポストで振るということではなさそうなので、客演で超一流の楽団でのコンサートを近々振って欲しい。



参照;
言葉不要の高度な表現 2021-11-16 | 音
カフェインで騙し目を覚ます 2021-12-25 | 雑感