前夜になって情報が流れてきた。ミュンヘンの劇場の新制作「ジュディッタ」の資料が送られてきた。現体制では二回目の初日であるが、前回の「鼻」の時よりもなにか力が入っている。印象だけであるが、制作が進んでいる状況で動きが増えてきた感じがする。

正直11月に指揮者が交代した理由も本当に病欠だろうかと疑っている。なぜならば今回の新制作への指揮者には可也良い芸術的センスが必要だからだ。少なくともこうしたポストモダーンの多様式的な作品の音楽監督にはそれなりの経験者が必要だからだ。

改めてそのことに言及するのは送られてきた情報のマルティメディアのコラージョこそは実は嘗て指揮者のエンゲルとあるプロジェクトを話したことがあるので余計にそう思った。

兎に角、演出家のマルタ―ラーが振り子のようにオペラと芝居やコメディーとシリアスもしくは喪失などの間で揺れ動く音楽劇場に言及がある通り、とてもその幅が大きく、一体どこに視座を定めていいか分からなくなってくる広がりがあるからだ。

先ずコラージョの一つ目が、1944年にどのように「ジュディッタ」の放送が非常事態下で聴かれたかが示されていて、感情的に揺さぶられてしまった。今我々がいるこの時がそのもの非常事態ではないか。
„Giuditta 1944“


予定通り抗原検査の前にシャツを洗濯屋で回収して、検査のところで車で30分近く待っていた。そして予約の17時55分過ぎに入って、事情を話して18時過ぎにテストをしてもらった。しかしメールで受け取った日時は17時57分になっていて使えないことが分かったのでさっそく薬局に電話すると、検査所には誰もいないのでどうしようもないと言われたが、まだ開いているところを教えてくれた。急いで出かけて、コンテナの外で寒空に証明書が来るのを待っていた。僅かな不安は口にロリチョップを舐めるもので口も洗浄していたが、100%の保証はなかった。それでも二度目の陰性を貰った。

こんなことまでして劇場に出かける人々。もうこれは1944年に耳を澄ませる人とその信じるところは変わりない。どんな気持ちであの当時の人がフルトヴェングラー指揮の音楽に耳を澄ませていたか、とてもよくわかるのである。今も昔も理不尽な政治にも強いモラルを示している姿なのである。我々は決して無抵抗ではない。

そして更に、ジュディッタが浮気して惚れるオクターヴィオが出兵したリヴィア蜂起とは一体何だったのかを示す映像。そして上の振り子とはどのようにオペレッタの時代の変遷とともに振り動いていることを示す映像がそこに加わる。ヴィーンの音楽監督フィリップ・ヨルダンが若いころにピアノを弾きながら解説している映像が挟まれている。決してそれが偶然にコラージュされたわけではない。
„Fragment zu GIUDITTA von Franz Lehár“

„Zwischen Operette und Trauer nur ein Sprung …“


まるで我々のつぶやきと同じことが並行で流れているもしくは、そのものパラレル世界がここでは新制作へのコラージュとなっていて、初日が始まる前から制作が流れているのである。

そして初日が収録されて、劇場のストリーミングとして1月に、翌月には独日文化放送局でも流されるとある。最初は計画されていなかったのだが、これも進行形の制作ではないか。



参照:
まるで夢のような喜歌劇 2021-12-17 | 音
劇場への強い意志を示す 2021-12-15 | 文化一般